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パレストリーナ 「悲しみの聖母」

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パレストリーナの「悲しみの聖母」は前にヴィクトリアとの比較で一度挙げたが、再掲する。ペルゴレージのものと歌詞はほとんど同じなのだが、ペルゴレージのような悲痛な響きが無く透明感と浮揚する様な神秘感に満ちている。

以前パレストリーナの曲はコードに直せないと書いたが、この曲の場合は対位法というより和声的な作りになっているのでコードにする事ができる。

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出だしの部分のコードを赤ペンで書いてみた。
1段目と2段目の初めにA ➡ G ➡ Fとクロマティックなコード進行をする事、その後G ➡F ➡ Cとアーメン進行が続く事、最後にシが♭になる事でキーがCからFに転調した印象を受ける事が分かる。

パレストリーナの曲をコードに直してみる事は古典派以後の音楽を聴き慣れた者にとっては全く未知の世界を探検する様なワクワクする作業ではないだろうか?




K1の芸術的ファイター、ザンビディス

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次の比較神話学の記事を書くまでにはまだ時間がかかりそうなので、久しぶりに武道の事でも書こうか。と言っても古武道ではなくK1である。

Kー1選手の中でも芸術的なテクニックとバランスを持っていたのがギリシャのザンビデスである。(黒いトランクスの方)


 
僕の言うバランスとは単にパンチとキックのコンビネーションではなく、コンビネーションを打つ時に体の中心軸が全くぶれない、安定しているという事だ。

ザンビデスは格闘技をやる前に体操をやっていた事がこの安定性の秘密だと僕は思う。気功の先生である西野皓三氏は気の力で人を飛ばすが、彼が合気道をやる前にバレーをやっていた事は有名だ。
また僕の以前所属した空手部にもダンスをやっている先輩がいたが、彼の足腰の地面に吸い付くような粘りはピカイチであった。

ザンビデスはまた10代の頃は空手とボクシングも経験している。
彼のパンチの強さはKー1ミドル級ではトップである。

重心を高く構えるムエタイ・スタイルは中国武術系の人には無縁だが、ザンビデスのクラウチングとスタンディングの中間くらいの構えでボクシングとムエタイを見事に融合しているスタイルは古武道の練習生にとっても大いに勉強になると思われる。

しかしザンビディスとここまで激しく撃ち合っているシャヒッド・オラドも凄い!

ノイマン 「グレートマザー」 ① 元型の系統樹

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ノイマンの第一に目に付く特色は、元型における「基本的性格」と「変容的性格」を区別する事によって重層化する事である。下図で下へ行くほど基本的、上へ行くほど変容的である。また中心線は基本的で右と左は変容的である。


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(1)ウロボロス

自分の尾を飲み込むウロボロスは心の始まりを象徴する「大いなる輪」である。それは陰と陽、男と女、意識と無意識などのの対立物を包含する原初の混沌である。仮に男女、陰陽の二つを考えると四つの象徴を含む事になる。

男の陽・・・自我と意識を支える力
男の陰・・・生命に対する敵意
女の陽・・・母性的な保護
女の陰・・・貪り食う力

これらを幼い自我は無秩序に体験する。

未分化なウロボロスはしばしば両性具有的象徴と結び付く。


(2)ウロボロス的グレートマザー

そこから段階を追って具体的なイメージへと近づくのだが、まず男性性と女性性が分裂しグレートマザーとグレートファーザーとなる。
ノイマンはそれに「ウロボロス的な」という形容詞を付けて呼ぶ。
まだ矛盾を孕みさらなる分裂の兆候を持っているからだ。

またノイマンはこれを「大いなる女性」(グレートウーマン)とも呼んでいる。グレートマザーとアニマ、アニムスが未だ分離していない状態である。意識と自我はまだ未熟で依存的であり無意識が優勢である。


(3)マザーの分裂と統一

「ウロボロス的グレートマザー」は否定的マザー(テリブルマザー)と肯定的マザー(グッドマザー)に分裂しつつその統合としての太母(グレートマザー)として統一体をなしている。

グレートマザーの基本的性格とは自分から生じたものを包容する側面であり、バッハオーフェンはこれが母権制社会に典型的に見られる事を示した。

自我と無意識の間には「心的引力」があり、ノイマンはこれを万有引力と相似象をなし、質量が大きくなるほど大きな吸引力を持つと説明される。また彼の説明は同時に食、分解、消化、同化などの生物的イメージも混在している。大きな元型や象徴は大きな吸引力を持ち相手を吸収するのである。

抑鬱状態では意識のリビドーが減り意識野の緊張が衰える事で無意識の吸引力に追随するようになる。それは夢や神話などの象徴体系では光、太陽、月、英雄などが夜、深淵、地獄、怪物などに飲み込まれる事として表現される。弱い自我は無意識の周りを回る衛星にも例えられる。ここには否定的マザーが介入している。

逆に自我が強化されると無意識の中の元型の内容の各部分を理解し自らの中に同化、消化する事で元型からリビドーを「切り裂き」奪い取る。それは英雄が怪物を八つ裂きにして殺すイメージとして現れる。

自我、意識を男性に、無意識を女性になぞらえるのは一般的だとバッハオーフェンもノイマンも言う。


(4)アニマの分裂

グレートマザーは基本的性格、アニマは変容的性格を代表する。どちらも投影されるが、アニマのマザーからの分離は男性の女性像の変化の投影というだけでは済まされない性格を持っている。

それは女性性の変容が生理、妊娠、出産、養育という物質性を持っているからであり、そこでは母親の変容と子供の変容が結びついており、アニマとマザーの一体性と分離性はまずそこに根拠を置く。
生理、妊娠は血の秘儀であり、出産後は「血を乳に変える」食物の変容の秘儀となる。


アニマはフロイトの性的リビドーに相当する。グレートマザーが自我を無意識の中に引き込もうとするのに対し、アニマはまだ無意識の中にあるが創造性を持ち、自我を魅惑し変容させる。マザーが自我を幼児のままでおこうとするのに対しアニマは(敵意ある否定的アニマの場合さえ)自我に試練を与えそれに立ち向かわせる。
アニマがまだ十分にマザーから分離していない場合は死の危険ももたらす。

アニマも陰陽とその統一という布置を持つ点でマザーと同様である。
ノイマンのモデルではマザーとアニマは二つの分けられた領域ではなく幹と枝の様にみなされる。エネルギーは養分の様に根元と枝先の間を常に移動するが枝先へ近付くほど分化しつつ変容し基本的性格から離れていく。グレートマザーの両義性とアニマの両義性はユングの場合より一層緊密に結びついている。

グレートマザーも幼い自我と結びつくと否定的なものとなり、否定的マザーも変容的性格への傾向、つまりアニマへの傾向を持っていると自我を龍との闘いの様な肯定的方向へ向ける事もできる。

これらはそれぞれ次の様な神話的象徴と結びつく。

否定的マザー、アニマ・・・・ゴルゴン
肯定的マザー、アニマ・・・・ソフィア
グレートマザー、統合的アニマ・・・イーシス 
 (神の名はあくまでも象徴の一例である)

グレートマザーなどの元型は無意識のレベルにあり、直接体験される事なく世界に投影される。これに対しゴルゴン、ソフィア、イーシスなど神話的形象は自我と同じレベルにあり、元型と違って直接に視覚像として体験できる。

基本的性格のグレートマザーは集合的で集団としてしか男と関係を持たない。変容的性格が優勢のアニマは女性的なものとして投影されるが、まだ母権的性格が優越し意識から独立し自足的である。変容的性格が女性によって意識化される事で初めて個としての女性と個としての相手の関係が本当に始まる事になる。





ユングでは影、アニマ、アニムス、太母、老賢人などと空間的に並列されていた元型をノイマンは心的発展の系統樹として捉え直す。それは未分化な混沌から男と女、母と子、意識と無意識が分離し、葛藤しながら最後に意識が無意識を再統合して行く魂の旅である。

前回書いた「グレートマザーからのアニマの分離」と「アニマの4段階論」と「アニマとグレートマザーの両義性」の三者の関係がはっきりしないという僕の疑問に対しノイマンは全てを統合している。

ユングでは個人的無意識と集合的無意識の関係が曖昧だった。ある弟子は「無意識の中に個人的領域と集合的領域が有る」といった領域区分の様な説明をしている人もいる。それに対しノイマンの「元型の系統樹」では個人的無意識が「そのまま」集合無意識なのだ。元型の個体発生は系統発生を繰り返すのである。 ノイマンの元型論はユングより更にヘッケルの反復説に近づいている。




A・フランクリン 「I Never Loved a Man」

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音楽の趣味が偏っていて恐縮なのだが再びアレサ・フランクリンである。(苦笑)  やはり彼女に一番感動するのだからしょうがない。

今までアレサ・フランクリンと言えば魂を引き上げるようなゴスペル・ブルースばかり取り上げてきたが、アレサもまた生身の女だ。自分を駄目にするような事もする。



ここでのアレサはプレイボーイの嘘つき男に惚れてしまう苦しい恋を歌っている。

あんた悪い男ね   嘘つき!  あんた詐欺師ね

それなのに私ったら何故・・・ここまであんたにやりたい放題させて

どうしてそこまで私を傷付ける事ができるの?

別れられるならとっくに別れてるよ

心に突き刺さる言葉。悪い男(悪い女)と分かっていても惚れてしまうとどうしようもなくなるのだ。これはもう中島みゆきの世界だ。

アレサは「悪女」の中島みゆきのように隠しておいた言葉をホロリと言ってしまう。

終わりだなんて言わないで

だって今までこんなに男を愛したことなんて無いんだから

しかしソウルでもゴスペルでもヤケクソR&Bでもアレサのナチュラルなブルースフィーリングだけは変わらない。


ノイマン ② 女性の身体としての世界

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今回は女性における中心的象徴としての「容器」とその変容の諸相を概観する。


<女性-身体-容器-世界>

原始社会において外界は投影によって「世界 - 身体 - 容器」として体験される。無意識の内容が神や星として認識され、さらに神が身体部位や器官と対応させられる。

世界を直立する巨人と考えるジャイナ教、リグ・ヴェーダの「原人プルシャ」などがその典型的な例だろうか。

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                リグ・ヴェーダの原人プルシャは宇宙より大きいとされる  
             (図像はこちらから  http://blogs.yahoo.co.jp/sangam_manager/53838207.html


中国最古の神話では創世神である盤古の死体から太陽や月、山川草木など自然界の全てが生まれたとされ、伏犧と女カの創造神話と好対照をなしている。最古のウパニシャッドであるプリハド・アーランヤカでは人間の死後、身体の各部分が太陽、月、大地、草木などに還元される事が説かれている。神が世界を創造したという父権的神話より神の死体から世界が生じたとする母権的神話の方が古いようだ。

「黄庭内景経」は五臓六腑が目や耳などの感覚器官と対応し、さらに宇宙の現象とも対応しているという考え方で書かれている。(ヨーガのチャクラにも似た発想がある)
下の内景図は中華民国時代に書かれたものだが、脊椎や内臓に気を循環させ凝縮、浄化していく「小周天」の行が大自然との相関や田園生活の比喩で説明される。

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ギリシャ神話やエジプト神話には宇宙全体を体内とする神はいないが、大河オケアノスや大地ガイア、エジプトの大地神ゲブと天空神ヌトなどがそれに近い。

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                                     エジプトの天空神ヌトと大地神ゲブ

現代人はこれらを「元型イメージの投影」と考えるが、古代人は内と外、人間と世界、力と物が分かち難い統一体をなす精神物理的空間に生きていたのである。


母権社会ではこの身体一容器としての世界がさらに「女性の身体」であると表象される。バッハオーフェンはその根拠を農業と生殖、養育の相似象に見たが、ユングは母性の基本を「包み込む事」と捉える事で農業に限らず狩猟・遊牧社会も包含する視点が可能になった。ノイマンはさらにそれを文化的象徴をも含む象徴体系へと発展させる事で現代社会にも古層として残っている事を示す。



<象徴の変容>

下のノイマンの図は「グレート・ウーマン」が基本的性格から変容していく拡がりを示す象徴連関の系統樹であり「女性性の現象学」である。

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(実はここでのノイマンの記述は細かく見ると矛盾と混乱が見られ、また説明と図が一致していない。僕に解る様に整理し矛盾のある点は修正したい。)



「容器」は特に女性にとって(従って母権社会にとって)最も基本的な象徴である。容器の内部は暗く知られざる無意識であり、腹部の入口である子宮は大地と繋がっている。夜、深淵、峡谷、深海などの表象がこれに連なる。全ての開口部は内部と外部の交換地点として装飾的に保護され崇拝される。


<容器の基本的機能-包み保護する

山は大地の一部だが、洞穴とつながる事でやはり女性の身体-容器と認識される。岩や石も同じ意味を持つ。さらに洞穴は墓を通して棺、骨壷などの表象に繋がる。また洞穴は原始人の住居、墓となる。住居はその集合である村、都市に繋がる。家の壁は都市の城壁へと発展する。

山は男性的な象徴ではないか?という疑問を持つ向きもあるだろうが、山の神は女神と見られる事が多い様だ。ひとまずノイマンの言う事に従ってみよう。


ノイマンは「グレートウーマン」の最初の機能的分化が「包み込む機能」と「保護する機能」への分化としているが、この説明は無理が有ると思う。包み込む事は保護する事であり、前者の例に挙げた柘榴やケシの実と後者の例に挙げた衣服の機能に違いは認められない。ただ後者は人工物である点が違う。

容器の基本的機能は「包み込み保護する事」であると考えるべきだろう。女性の身体としての世界は胎児を子宮という容器で、産まれた人間を世界という容器で、死者を墓、棺、骨壺という容器で保護しているのだ。

「包み込む」機能を象徴する動植物は柘榴、芥子など種子を包み込む果実、動物では多産な豚や子宮に似たイカ、タコ、貝、などである。人工物としては樽、バスケット、かいば桶、麻袋などの容器、またシャツ、ドレス、コートなどの衣服は保護機能に重点を置いた象徴と見なされる。



<容器の機能分化

ノイマンの発想を活かすとすれば、最初の機能的分化は「包み込む機能」から「与える機能」と「変容させる」機能が分化する事と考えるべきだろう。与える機能は「養う機能」へと発展し乳房に関係付けられる。変容させる機能はさらに精神性を付加して文化的象徴へと繋がって行く。ノイマンの体系ではこの分化がグレートマザーやアニマの両義性へと繋がっていくと理解されている。両義性の根源はノイマンではユングよりずっと根源的な所に由来する。


<木

大地母神は植物の母であり、バッハオーフェンが強調した様に生殖、育児と農業の相似象こそ大地母神の核心である。

木は葉や小枝を産み養い変容させ、鳥や巣を隠して保護する女性的性格を第一義とし、しかし同時に男根の象徴でもある。果樹や葉の多い木は女性的性格が勝り、糸杉などは男性的性格が勝る。

木の両性具有性はインドのシバ神のリンガの中に女性原理としてのシャクティが含まれている事に典型的に表現されている。

象徴の力点は社会が母権的か父権的かによって異なる。
母権制ではオシリスの埋め込まれた杉の柱でさえ棺-死者を入れる容器として女性的であり、男根的な木も大地に依存する事が強調される。
父権制では母なる(mater)性格は物質(materia)として価値の低い物とされ、「天上にある木」や「アダムの肋骨からイヴを作る」などの自然過程に反する「反自然的象徴」を作ろうとする。しかし父権社会でもこの図にある様な無意識から発する自然象徴が象徴体系の骨格となりそれが母権的性格を保持しているので、母権的要素を絶滅する事はできない。

グレートウーマンの両義性は木にも波及し、家として生命誕生、養育の場でもあり、棺として死者の容器ともなる。棺の延長に絞首台、十字架、火刑柱などの「死の木」のイメージ群が連なる。

大地は植物の生命を支配しているので、女性性の秘儀は大地とその変容の形の中にある。従ってグレートマザーの元型は石器時代の狩猟社会にも認められる。植物の成長に伴う形と色彩の神秘的過程は大地の下で雨と太陽光の力、さらに星や月の影響の下で進む。これは三木成夫氏が指摘した事、即ち植物の生のリズムは大自然に解放され、太陽が心臓であるとさえ言えるという事と同じ事態をさしている。

動物もこの植物を食料や巣だけでなく休憩所にしたり木の幹で爪を研いだり手長猿の様に運動器具として利用したりなど、植物世界に溶け込み、それに依存している。そして植物の生命力の根源は大地と雨と太陽など大自然の力である。




<腹部と乳房

ノイマンはグレートマザーの両義性への分裂、マザーとアニマの分離、アニマの両義性への分裂、自然象徴から人工物への延長、要するに系統樹の幹から枝へ分岐して行くその全てを総合して「女性の変容」と呼んでいるようだ。もちろんそこにはそれら全てが相互に関連し合って進むという理解がある。

女性性の基本的性格は腹部、容器であるのに対し、変容的性格は乳房に象徴されると言う。それは最も基本的な「包み込む」機能から「与える」「養育する」機能への転換である。

変容的性格の最初の兆候を示す茶碗、コップなどのグループは容器は大きく開いていて「包み込む」機能と「与える」機能を結びつけている。

ヤカン、急須、ジョウロなどは「注ぎ込む一与える」機能を持ち、オーブン、レトルトなどは「中身を変容させる」機能を持つ事で単なる容器から変容している。この与え、変化させる事でこれらは乳房の系列となる。

車、船、飛行機など乗り物も単なる保護する箱ではなく「運ぶ」という別の機能を担うため容器からの分化と見なされる。



<精神的変容としての飲食物

ノイマンの図には衣食住に関する全ての人工物までが自然からの変容象徴として描かれている。人工物は単なる技術ではなく「変容の秘儀」なのであり、従って精神性を持っているのである。

果実から果汁へ、発酵を経て果実酒への変容は月と結びつきソーマ、ネクター、ミードなど不死の酒となる。植物から採れる薬物、毒物も同様である。毒もまた薬物と同様ヌミノスを持っている。

酒、薬物、毒物は酩酊、病気と治癒、中毒など人格変容をもたらす精神原理として体験する。

水の性格は本来精神的変容と結び付いている。母なる海、原初の子宮のイメージがそれを表している。水は変容して「養育する水」ミルクとなり乳房と関連付けられる。水は包み込む事で腹部と、養い変容させる事で乳房と関連付けられる。雨は天のミルクであり地下水は大地のミルクである。それを見事に表現しているのがインドの「乳海撹拌」神話だろう。インド神話はギリシャ神話に比べると日本では知名度が低いので簡単に紹介する。


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                             「乳海撹拌」 左側が神々、右側がアスラ達

不老不死の霊薬アムリタをめぐって神々とアスラが長い戦いをつづけていたが、両者は疲労困憊しヴィシュヌ神に助けを求めた。
ヴィシュヌは「戦いをやめ、神々とアスラが協力して大海を撹拌すれば甘露(アムリタ)が出現するだろう。得られたアムリタを飲めば良い」と答えた。アムリタを分け合うことを条件にアスラは協力に応じた。
神々とアスラは協力して天空に聳えるマンダラ山を引っこ抜いて海まで運び、山にヴァースキ竜王を巻き付け、神々はヴァースキの尾側を、アスラは頭側を持ち、綱引きの様に引っ張って山を回転させ海を撹拌した。ヴィシュヌは巨大亀クールマとなって海に入り支点となって山を支えた。
ヴァースキ竜王は強く引っ張られて苦しみ口から火と煙を吐いた。海に棲む生物はことごとく大山に潰されて死に、マンダラ山の木々は擦れ合って燃え上がり山火事となった。象や獅子など多くの獣が焼け死んだ。
インドラが雨を降らせて山火事を消すと樹木や薬草のエキスが大量に海に流れ込み海は乳海となった。ヴァースキが苦しんで口から毒を吐いたがシヴァ神がそれを飲み干した。シヴァ神は毒によって青く変色した。
1000年間攪拌が続き、乳海からはさまざまなものが生じた。太陽と月、白衣の吉祥天女、酒の女神、白馬、牛、宝石、願いを叶える樹カルパヴリクシャ、聖樹パーリジャータ 、アプサラスたち、女神ラクシュミーが次々と生まれ、最後にようやく医神ダヌヴァンタリがアムリタの入った白壺を持って現れた。
アスラは約束通り一度は神々とアムリタを共有したが、機転を利かせたヴィシュヌ神が美女に変身して誘惑し、心を奪われたアスラたちはアムリタを美女に手渡した。その結果、アムリタは神々のものとなった。

ここで乳海は海にマンダラ山の樹木や薬草のエキスが混入し変容したもので、そこから英気を養うアムリタが生ずる。世界創造において水がミルクへ変容する事の役割をこれほど鮮明に示した神話はない。



水の変容的性格との関係で注目されるのは(川は男性として表される事が多いが)水は本来両性的だという事である。ナイル川の神ハピは男神だが垂れた女性の胸を持つ。龍神のヤマタノオロチは若い女性を要求するなど雄の性格が強いが水神のミヅハノメは女神である。同じく水神のクラオカミ、タカオカミは男神とも女神とも規定は無いが、後に真言密教と集合してからは善女龍王と結び付けられやはり女神と考えられる様になった。

水は池、湖、泉から井戸などの人工物の表象へと繋がる。


水と同様に食べ物、飲み物も空腹と満腹、渇きと癒しなど変容の神秘体験である。火による食品の加工、焼く、煮る、炙るなども同様。


物質的変化が人格性の錬金術的変容として現れ、自然物が文化的象徴となる過程は神話の生成する前提である。

こうして草は穀物からパンとなり聖餐となる。花は王冠や曼荼羅となる。



<母権制における精神的変容の極致

母権制における最も抽象的で精神的な象徴は心臓や口と関係すると理解される。口~呼吸~言葉~ロゴスの系列は父権的なものに占領された今も母権的源泉を示している。



前回書いた様に女性性の変容は初潮、妊娠、出産という物質的基礎を持ち内的必然性を持って進む。それは「グレートファーザー」の変容が外からの突然の侵入の性格を持つのと対照的である。

それは内的力による成長である故に「容器一身体一女性一世界」という大いなる環を破壊する事なくその環の中で進む。しかしそれは質的に変化し物質的な基礎から精神性を生み出す。

ノイマンはこう語る。
「母権社会は決してバッハオーフェンが考えた様な地上の物質的世界、儚い浮世の世界、闇の世界ではない。再生の秘儀によって、個は光に高められ、不死なるものとなる。」

バッハオーフェンが慈愛や和解力、統一力や密儀宗教など母権制の偉大な精神的特質に感嘆しながら、一方では母権制を物質と夜に結びつけ精神と光はアポロン的父権制から来ると主張するのに対し、ノイマンは「月と星」という母権制の光のありかたの重要性を強調する。

母権的な精神性は母なる土壌を否定しない。それは大地との繋がりを残した息子の様なものと理解される。アレクサンダー大王とカンダケ女王の駆け引きが連想される。アレクサンダー大王はカンダケ女王に自分の妻となる事を望むがカンダケ女王は大王の母となる事を望む。母権制では権力は王の妻ではなく王の母とだけ結び付いているからである。
http://blogs.yahoo.co.jp/bashar8698/40091969.html

母権制では光は先ず月である。大地母神の基本的性格である容器、内部、夜、闇から夜空の月へと繋がるからである。昼と太陽は大いなる女性の子供と見なされる。


リシケシの失われたシヴァ神像

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乳海撹拌の神話で竜神ヴァースキの吐いた毒をシヴァ神が飲み干し身体が青くなった事を前回書いたのは良いタイミングである。ここでバリ島のヴィシュヌ神像に続いてインドの失われたシヴァ神像の事を書きたくなった。

インドの北部ウッタラカンド州のリシケシはヒマラヤに近く、まだ汚れていない綺麗なガンジス河が街の中央を流れるヒンドゥー教の聖地である。ヨーガの故郷として有名でビートルズもヨーガを習うために訪れたそうだ。

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                       写真はここから借用http://etours.jp/india/features/rishikesh

リシケシのガンジス川沿いには多くのヨーガ・アシュラムが有る。そんなアシュラムの一つ「パルマートニケタン」にかつて美しいシヴァ神像が有った。シヴァ神は最古のヨーギとみなされているのだ。

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                            写真はこちらからhttp://liliki.net/blog-entry-195

ところが3年前の2013年6月、モンスーンに伴う豪雨でガンジス川が大洪水となりなんとシヴァ神像が流されてしまったのである。この洪水で5000人以上が亡くなった。


シヴァ神は現代ヒンドゥー教の三大神の一人で創造神のブラフマー、維持神のヴィシュヌに対し破壊を司る神とされ、暴風雨神ルドラと同一視されるようになった。

シヴァの頭頂にいるのはガンガー女神である。天の川ガンジスが地に降りて来る時大地が洪水にならない様に頭で支えたと言われている。

ガンジスの洪水を防ぐはずの暴風雨の神が暴風雨によるガンジスの氾濫で流され破壊の神が破壊されてしまったのでは面目丸潰れである。是非今度は洪水でも流されない様に再建して欲しい。






リシケシのシヴァ神はヨーガの瞑想の形をしていたが、最も多く描かれるシヴァ神の形は片脚を上げて踊るナタラージャ(舞踏神)の相である。

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        絵はこちらから借用http://www.k5.dion.ne.jp/~dakini/tenjiku/zukan/siva.html

シヴァの皮膚の青黒い色は乳海撹拌の時に竜王ヴァースキが吐いた毒を世界を守るために飲み込んだためだが、別説では牛糞を焼いた灰を身体に塗っているからだとも言われる。しかしインド神話には他にも青黒く描かれる神があり、それらはもともとアーリア系ではなく色黒の先住民族ドラヴィダの神だったと言われる。

ヨーガの文化はもともとはドラヴィダ族のものである。インド神話には神々が超能力を使うヨーガ行者を怖れる話が頻出する。それは後から入って来たアーリア人がドラヴィダ人のヨーガ文化をバラモン文化にとって脅威、ライバルと見なしていた事実が反映されている。

シヴァ神はバラモン文化に融合する以前はマハーデーヴァ(偉大な神)と呼ばれる至高神で破壊だけでなく建設も司る世界の組織者だったらしい。そこにはノイマンの言う「ウロボロス」的な両義性が典型的に現れている。(この点は女神カーリーも同じである。)

片手に持つ「トリシューラ」と呼ばれる三叉鉾は雷を象徴し、他の手には、「ダムルー」と呼ばれる両面太鼓を持つ。まさに破壊と吉祥の両義性を表す象徴である。

また妻のプラジャーパティと半分ずつになった両性具有の像も存在する。これもギリシャのディオニュソスと同様、ウロボロスの大きな特徴である。
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万能のシヴァ神に嫉妬した仙人達がシヴァ神を殺そうと虎や毒蛇を向かわせたが、シヴァは虎の皮をはいで体に巻き付け蛇はネックレスにして踊り始めたと言う。シヴァ神は踊りの元祖であり、その踊りは宇宙の創造と破壊のリズムを表すと言われている。



シヴァ神はカーリー神、ギリシャのディオニュソスやゴルゴン、マヤのククルカンなどと共に「両極の聖性」が分離する以前のウロボロスの現れとして、また分離後には否定的マザーの元型として今後も考えていく謎である。


再掲 ゴシック的対位法とバロック・フーガ

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バッハの音楽はよくゴシックの大聖堂にたとえらる。
「バッハはバロック音楽なのに何故ゴシック美術に比されるのか?」そんな疑問を持たないだろうか?  

しかし音楽史家の話では「対位法」というアイデアはむしろゴシック的な発想なのだそうだ。実際に対位法は12世紀末のレオナン、ペロタンなどノートルダム楽派で既に研究され「オルガヌム」と呼ばれていた。ただ技法的には機械的で現代人が聴いても美しいとは言い難いようだが。




ゴシックの時代(12世紀後半から13世紀)は哲学史ではトマス・アクィナスやボナヴェントゥラなど後期スコラ学の時代にあたる。この時代は宗教戦争のバロック期に較べるとまだ神学の議論に余裕があった。神秘主義と合理主義、実念論と唯名論などが議論しあう余裕である。

既にあちこちで異端派が現れて収拾のつかない状態ではあったが、まだローマ教皇の権力は国王の権力をはるかに上回り、フランチェスコ会のような穏健な異端派はむしろローマ・カトリックの中に包摂していこうという包容力があった。この包容力はルネサンス的寛容の精神まで連続している。

ゴシック建築のレリーフには化け物の像が多く見られる(下写真)が、これもギリシャ神話、ゲルマン神話を含めた民間の伝説をカトリック内に包摂しようという精神の現れとも考えられる。

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                                           ノートルダム大聖堂の怪物

対位法がゴシック的と言われるのは異なるメロディーが絡み合い、時には対立し時には協調するという精神がゴシックに近いという事なのだろう。


ゴシックの「対立的協調」を破壊したきっかけはルターの宗教改革だった。宗教戦争は農民戦争へと継承されドイツでは戦乱が続いた。
16世紀のドイツ農民戦争、17世紀の30年戦争によってドイツの人口の4分の3が死んだと言われている。ポルポト派の大虐殺でさえ人口の4分の1だ。4分の3というのがいかに凄い数字であるかがわかる。

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                      30年戦争の悲惨さを描いたジャック・カロの「戦争の悲惨」

もちろん宗教戦争はドイツにとどまらずヨーロッパ全体へ拡がりフランスの「サン・バーテルミーの虐殺」など、悲劇が各地で繰り返された。

この悲惨はルターにも原因があるのだろうか? 難しい問いだが今の僕はルターにも原因と責任があると考えている。ルターには最下層の農民を奮い立たせる下剋上的エネルギーと同時に相手を皆殺しにせずにはおかないヒステリックな側面があり、それが戦争の悲惨さを激しいものにしたと考えられる。ルターがルネサンス的寛容を破壊したのはエラスムスの「自由意志論」に噛み付いた「奴隷意志論」に象徴されている。ルターは「自由意志」「Human Nature」こんな概念を激しく憎悪した。彼にはテルトゥリアヌスの「理性、合理性への怒り」と同質の何かが有る。

この「合理性への怒り」はカルヴァン派にも共通するものだが、対抗するイエズス会には逆に「近代的合理性」を追求する姿勢がある。モリーナの神学は中世的目的論を目的と手段の概念に基づく近代的目的論へと転回させ、「原因無ければ責任無し」という近代的責任論を神学的に表現している。

しかし「バロック的非寛容」はカトリックにもプロテスタントにも共通して見られるものだ。魔女狩りが最も激しくなったのもこの時代である。

「対立しつつ協調する」ゴシックに対し、バロックはあらゆる異端的要素を排除する事で自身の純粋さを研ぎ澄まし、純粋さに自己陶酔する。
その結果、前期バロック音楽はむしろ対位法を捨て「調性と和音」という原理へ向かっていた。それを代表するのがカッチーニとモンテベルディである。

人間の卑小さが強調されたプロテスタントに対しカトリックのイタリアではオペラが「人間の善性」を高らかに歌い上げた。

対するにルター派の色濃い北ドイツでは絶望的な状況の中で庶民は信仰に救いを求めルター派コラールが流行した。コラールは修道院のプロの合唱団ではなく一般の信者が会堂で歌う賛美歌である。そこではペロタンのような複雑なオルガヌムは敬遠され単純素朴な解りやすさが求められた。

しかしルター派コラールの解りやすさは期せずしてイタリアオペラと不思議なシンクロを起こし「対位法から和声音楽へ」という流れの一つの動力となったのである。


ルターはカルヴァンと違って音楽が信仰に役立つと考え自分でも多くの賛美歌を作詩作曲している。グレゴリオ聖歌のメロディに影響され短く区切られたフレーズ、そして転調が多いのが特徴だ。

一方ゴシック的対位法はルネサンスの時代にもフランドル地方を中心に少しずつ高度なものとなり、1600年頃に活躍したジョスカン・デプレにおいて一つの完成された形をみる。ジョスカンはゴシック的対位法にルネサンスイタリアの美しい情緒を融合させた。



ルターはジョスカンの曲を「他の音楽家たちは音に支配されているのに対して、ジョスカンのみは音を意のままに支配する」と賞賛した。ジョスカンのポリフォニーは素朴でありながら荘厳さを感じさせる点でルター派コラールと共通するものが有る。

バッハは子供の頃からルター派コラールを聴いて育ち、それに和声をつけて4声コラールヘと進化させた。バッハの音楽に他のバロックに無い悲痛な調子が時々あらわれるのは宗教戦争の悲劇が刻印されているからだと思う。この曲もそんなルター派コラールの一つである。



これもルターの作詩作曲した賛美歌に和声をつけたものである。これをAmのキーに直すと次の様なコード進行になる。

Bm7(♭5)  E7    Am     F     Dm    Am    E     A
   A       Dm   C    F     Gm    A7   A7   Dm

繰り返し
 
Dm   Dm    Gm    Gm   Dm    C    F    
A7        Dm    A7     D     E     Am    E   Am


G    C    F    F    C    Dm   Am   B♭
F    A7   Dm   B♭   A7   A7    D


1行目と2行目、3行目と4行目、5行目と6行目の間で転調している。AmのキーとDmのキーの間で行ったり来たりする感じだ。


この歌の意味は次のようになる。

  私たちは まことの復活のパンを食べて 
      その中ですこやかに生きる
  古いパン種は 恵みの言葉の中に入り込むことはない
  キリストは 食べ物となって 魂を養ってくださる
  信仰はこれによって生きるのだ ハレルヤ


バッハはこれをさらに編曲して一大カンタータにした。教会カンタータ第4番である。



バッハのカンタータは二つか三つの主題が絡み合う構成が多いのだが、この4番は全曲がたった1つの主題の変奏になっている。
バッハがこの主題に如何に大きい思い入れを持っていたかが良く分かる。


古典派以降の曲は始めに簡単に主題が示され、それが組み合わさって複雑になっていくのだが、バッハのカンタータは最初に最も複雑な変奏が現れて、それが次第に研ぎ澄まされて行き、最後に原初のテーマが示されるものが多い。それは近代の「機械論的世界観」に対抗する中世の「目的論的世界観」を表現しているかの様だ。

最初の壮大なフーガはロ短調ミサ曲やマタイ受難曲に匹敵する荘重さである。

シュバイツァー博士はバッハの音楽を「ドイツ神秘主義の一形態」と言い切った。その言葉はこのカンタータ第4番を聴く時、圧倒的な説得力を持って迫って来る。バロック前期において対立したパレストリーナ的対位法とカッチーニ、モンテベルディ的和声音楽は偉大なバッハによって壮大なバロック・フーガとして統合されたのである。

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ノイマン ③ 変容と逆転

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今回はノイマン自身が「グレートウーマンの機能圏」と呼んでいる下図を吟味する。

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この基本構成である2つの軸と4つの同心円を説明すると、
左上(肯定的マザー)から右下(否定的マザー)のM軸
右上(肯定的アニマ)から左下(否定的アニマ)のA軸
2軸共に上半球が肯定的側面、下半球が否定的側面を表す。
同心円は中心から順に基本、変容、精神変容、神話的表象を表す。


まず第一にこの図はユングの「肯定的マザーと否定的マザー」「肯定的アニマと否定的アニマ」が二つの分割された領域ではなく無限のグラデーションとして示される事を前提にしている。
下図では7段階で示してあるが、もちろん無限の中間段階を持っているというのがユング~河合隼雄氏の理解でありノイマンも同様である。
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第二に2つの軸が同心円で繋がっている事はアニマの両義性とマザーの両義性が繋がっている事、二つは一つの変容過程の二側面である事を表している。

マザーとアニマの肯定的側面と否定的側面が密接に関係するならマザーとアニマを一緒にしてしまえば良いのではないか?と考える人もいるだろうが一緒にはできないのである。

「母親の性的側面に気持ち悪さを感じる」深層心理的タブーの存在がこの二つを分けていて「人間と象徴」で明言されていたように母親に深層心理のレベルから反感を持つ場合と愛着している場合ではアニマとグレートマザーの関係が大きく異なってくる。

女性も特に思春期に「父親の性的側面に気持ち悪さを感じる」時期があるようだが、女性の場合はタブーという微妙なものではなくハッキリとした嫌悪感となる場合が多いと思われる。


第三に同心円の内側から外側への拡大も変容であり、マザーとアニマの二軸の分離も変容である。この事が外側へ行くに連れマザーとアニマの距離が広がり象徴的意味も離れていく事によって示されている。





<基本円>

では具体的に見てみよう。まず中心から最も近い基本円の4方向。

左上(M+)へのベクトルは出産という物質的基礎を持っている。それは典型的には「植物が大地の暗い子宮から芽吹いて<世界の光>を見る」という植物に象徴され、また「無意識から意識へ」という心理的発達過程と相似象をなしている。どちらも闇から光へと進む。肯定的マザーはグレートウーマンが包み込んでいる物を光へと解放する。産む事は放つ事である。

中心から右下(M-)へのベクトルは子供にしがみつき、捕える危険な側面である。神話や童話に頻出する囚われのモチーフ(アンドロメダはその典型だろう)や網、絆、蜘蛛、タコなどの表象となる。捕らわれている子供は半独立の状態にある「反抗者」である。

右上(A+)へは授与(与える)機能が基本となり保護、保温、養育などに変容、分化する。 右下(A-)へは授与の反対、つまり拒否と剥奪の機能である。

下半球(M-とA-)は「捕縛」と「剥奪」であるが、どちらも「力ずく」という点で共通し「自由を奪う」機能において重なり合う。

拒否は肯定的な意味としては束縛から解放する事であり、肯定的マザーと響き合う。(左下と左上)

この拒否は「出産外傷」と言われるものの基礎であり、アダムとイヴの楽園追放やグノーシス的な故郷喪失の観念の原基となり得る。


<変容円>

内側から2番目の変容円でも基本円の性格の延長なのだが方向が修正され変容が起こるわけである。

マザー軸の肯定面(左上)は成長、発達であり、否定面は減少と呑み込みの機能が生まれる。
アニマ軸の肯定面(右上)には変容と昇華、否定面には変容と分離、溶解の機能が生まれる。

下半球に注目すると、マザー軸に沿った否定面は減少、呑み込みから肉体的死へ向かい、アニマ軸に沿った否定面は自我の溶解から狂気と精神的な死へ向かう。

上半球でも同様にマザー軸ではより肉体的、物質的な成長へ向かい、アニマ軸は「精神的変容」という方向へ向かう。


<精神変容円>

3番目の精神変容の円では変容の頂点の性格が示される。マザー軸の肯定的頂点は果実であり、それは新生、再生を意味する。子宮の内部の種子から成長して果実内部の種子へと原点回帰したわけだ。
アニマ軸の肯定的頂点は霊感、インスピレーションである。
マザー軸とアニマ軸の否定面の頂点は死と狂気である。

ここで精神変容の円と2つの軸の4つの交点はそれぞれ秘儀の領域となる。ノイマンの言う秘儀はエレウシス秘儀の様な実際の歴史的秘儀より遥かに広い意味を持ち、全ての人間に共通する心の領域である。

右下の「死の秘儀」は否定的マザーの呑み込み-捕獲機能に基づく秘儀であり、インドのカーリーやギリシャのゴルゴンの様な死の女神を中心に戦争や狩猟の女神アルテミス、月と魔術の神ヘカテー、古代的な生贄儀式などの表象が連なっている。

左上の「植物の秘儀」にはデメテルやイーシスの表象がある。肯定的マザーの究極が植物イメージと重なっているあたりはユングには無かったものでありバッハオーフェンの影響である。

ギリシャのディオニュソスは右上の霊感から左下の狂気まで振れる幅を持つと理解されている。これはバッハオーフェンと同じ理解でありほぼ当たっているだろう。初期のディオニュソス教は左下に近くオルペウス教のディオニュソスは右上に近いと考えられる。


<両極の逆転>

予言や占術、原始的なシャーマニズムにおいてA軸のプラス極の「幻視-霊感」はマイナス極の「狂気-忘我」と密接に関連する。

意識は元型に魅了され、肯定的、否定的な極に近づくとそのヌミナスに占領されてしまい、意識の解体、喪失がおこる。そこで意識は弁別機能を失って肯定的なものと否定的なものの逆転が可能となる。特にエクスタシーは逆転現象の典型的な原因となる。「エクスタシーを通した価値の逆転」は多くの未開社会のイニシエーションや秘儀の基礎となる。

この逆転はM軸でも起こり得る。逆転は「極を通り越して反対の極に行ってしまう」とも表現できる。軸の両極だけでなくA軸とM軸の対立、相違も消滅し原初のウロボロスへ回帰する。これは下図の様に中心を北極と考えA軸とM軸を直交する子午線と考えれば解りやすい。両極は最後に南極点となって一致するのである。

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このエクスタシーの中での逆転によってバタイユの供儀論で問題にされた「聖なるものの解体」「解体のエロティシズム」を説明する地平が開け、ユング的「同一視」論からの決定的な飛躍となる。

例えば右下の極にある「解体」と「死」が左上の極にある「再生」や「豊穣」とエクスタシーの中で一致する現象としてディオニュソス教やミトラ教の牛の解体、アイヌのイヨマンテにおける熊の解体を見る事ができる。



ここまではノイマンの言葉によれば「スケッチされた図式的輪郭」である。この時点で一つだけ気付いた難点を指摘すると、ノイマンの図式では肯定的マザーが常に肯定的アニマに、否定的マザーが否定的アニマに繋がり、「人間と象徴」で示された「母親を嫌悪するか愛着するかでグレートマザーとアニマの繋がり方が逆になる」というデリケートな問題が視野に入って来ない。この点を頭に置いておきたい。

この後、各論的な神話的象徴の記述に入るのだが、僕の問題意識に取って特に重要な点だけを概観する事にする。


敦煌莫高窟の壁画

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        地図はこちらから借用  http://home.m01.itscom.net/shimizu/yultuz/silkroad/history/

中国西部、甘粛省の西端に位置する敦煌は、東と北はゴビ砂漠、西はタクラマカン砂漠が広がり年間雨量が40mmに満たない乾燥気候だが、南側の祁連(キレン)山脈の豊かな地下水によってオアシス都市として栄えてきた。記録によると唐の時代には大きな川も流れていたらしい。

敦煌は上図の通りシルクロードの三つのコース(天山北路、天山南路、西域南道)の合流点となる経済的要所であり、また漢の武帝がこの地を匈奴から奪って玉門関、陽関が整備されて以来、西域経営、遊牧民族対策の軍事的拠点ともなり、いわば「地政学的な重要拠点」であった。

莫高窟は敦煌市街の南にある鳴沙山の東崖を削り穴を掘った石窟寺院で、南北約1600mにわたっている。伝説では後漢が滅びた後、五胡十六国が乱立する366年、仏教僧の楽尊が掘り始めたと言われ、以来、元王朝の時代まで1000年にわたる仏像、壁画が残っている。
(楽尊のソンの字は本当は人偏に尊)

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今回はその中で初唐時代の壁画を3点取り上げる。




<第57窟 観音菩薩>

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第57窟の「仏樹下説法図」は結跏趺坐の仏陀の周りに観音菩薩、勢至菩薩などが寄り添う構図となっているが、残念ながら仏陀と右の勢至菩薩が黒く変色し、左の観音菩薩だけが美しいまま残っている。


観音菩薩は本来は中性だが中国では女性として描かれる事が多く、第57窟はこの観音菩薩のおかげで「美人窟」と呼ばれるようになった。

この画は「瀝粉堆金」と言って白い部分は石膏を袋からチューブを絞る様に塗り付け、宝冠や首飾りの金色は金粉を漆喰と混ぜてペースト状にして塗り付ける技法で金色の部分が僅かに盛り上がっているそうだ。荘厳と言うよりは柔和で癒し系の表情をしている。



<第321窟 飛天>

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莫高窟には如来、菩薩だけでなく、その周りを飛び回る飛天の図も多い。第321窟の飛天の羽衣はたなびいて雲の流れと一体化している。

そしてこの雲の象徴的表現にも驚かされる。白、黒、青、白みがかった青緑、ベージュ、少なくとも五色が使われている。自身の意志を持つかのようにうねり、渦を巻き、たなびく方向も自由自在だ。
空とも海ともつかない霊界を表すかの様な背景の鮮やかな青にはラピスラズリが使われている。

この飛天と雲の揺らめきはスペインのエル・グレコを連想させる。
だがあちらは信仰の炎の上昇気流による激しい揺らめきであるのに対し、飛天の揺らめきは水の様に優しく、自由で涼しい。



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         写真はこちらから借用 http://blogs.yahoo.co.jp/sakurai4391/30474534.html

この飛天も第321窟の物だ。この柔らかい優美な動きはどうだろう?
この飛天の舞は今もダンスを見る事ができる。



この流動性は僕には漢民族本来のものというよりは北方騎馬民族の生活に影響を受けていると思う。砂丘の砂嵐のイメージ、そして遊牧生活の流動性などに由来するように見えるのだ。

日本の白鳳美術は初唐様式、天平美術は盛唐様式の影響が強いと言われる。重厚で豊満な天平美術に対し優美さと荘厳さが絶妙なバランスを保つ白鳳美術の流動美はこの西域独自の文化から来ていると僕には思われる。

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  白鳳美術の薬師寺 月光菩薩像                           天平美術の神護寺 薬師如来像



敦煌の壁画にはやはり喜多郎の「シルクロード幻想」がピッタリだ。



ノイマン ④ 殺戮の女神カーリー

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まずノイマンの無機的自然にまで広がった否定的マザーのイメージを検証しよう。大地の子宮は貪り食う死の口となり、暗闇、墓、深い穴として山の洞穴に口を開けている。生命を生み出す女性は同時にそれらを自分の中へ連れ戻し、罠や網で捉え、犠牲を求める者でもある。病気、飢餓、戦争は彼女の友である。彼女は虎やコンドルに化けたり肉を食う石棺となったりする。
グレートマザーのウロボロス性がアニミズム的自然観に対応する事が理解される。

この「テリブルマザー」の究極の根拠は何か? 差し当たって僕が持つ疑問はここにある。
それは大地母神の本来的性格の一部なのか? それともバッハオーフェンが示唆した様に「復讐」が絡んでいるのか?ノイマンはどの様な答えを出すだろうか? ノイマンの挙げる例を見ながらゆっくり検証したい。


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ノイマンは否定的マザーが最も壮大な形をとったのがインドのカーリー女神だと言う。

ここでカーリー女神について説明しておくと、カーリーはドゥルガーとも呼ばれシヴァ神の妻パールヴァティーの憤怒相とされるが、戦いと流血を好む恐ろしい神である。今でもカルカッタのカーリー寺院では秋のドゥルガー祭りで800頭くらいの山羊が生贄として断頭され血は女神に注がれる。

生肉を常食とし、呪術の精霊ヨーギニー、人肉食の魔女ダーキニー、殺人鬼のヴェタラ、死霊のブータラなどを眷属とする。髑髏の首飾りと切り取った腕を繋いだスカートを身に付ける。(下図)

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カーリー神の下でシヴァ神が踏みつけられているのは次の様な伝説による。

カーリーはアスラのラクタヴィージャとの戦いで相手の血を吸い尽くして殺し、勝利のダンスを踊ったが、そのダンスがあまりに激しく大地が砕けそうになったのでシヴァ神が下に寝てクッションとなり衝撃を和らげたと言う。しかし別説ではシヴァ神は我が身を生贄としてカーリーに捧げたとも言われ、子供のはらわたを食うカーリー神の姿も作られている。

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19世紀、イギリスの植民地となったインドでタギーと呼ばれる暗殺集団が有った。裕福な旅人や商人を殺し、金品を奪い、血をカーリー神に捧げたと言う。


また悪魔のマヒシャが水牛に化けて世界を奪おうとした時、シヴァ神の三叉鉾、ヴィシュヌ神の円盤、インドラ神の雷など全ての神の力を一身に集めて9夜戦い抜き、マヒシャは水牛からライオン、人間、象と次々に変身して抵抗したが、最後に水牛に戻った時にライオンに乗ったカーリーが槍でマヒシャを倒したと言う。

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この悪魔マヒシャが様々な動物に変身した挙句、牛になった時に殺されるという話、どこかで聞いた事がある。そうだ、ザグレウス=ディオニュソス神話である。http://blogs.yahoo.co.jp/bashar8698/38869689.html
そしてライオンに乗る女神はキュベレーに似ている。

この相似は差し当たって狩猟民族と牛を使う農耕民族の戦いを暗示していると考えておこう。さらにもっと深い意味が有るかどうかは今後の課題とする。


カーリーの力はシャクティと呼ばれタントラでは「カーリー・シャクティ」とも言われる。

インド思想史の研究家ヤン・ゴンダはそのタントラの「シャクティ」、ユングの言う「ヌミノス」を「潜勢力」と表現している。彼はリグ・ヴェーダに現れた神は他宗教の最も原始的な姿と同様、現代人の考える「倫理」では測れない事を強調している。(岩波文庫「インド思想史」p.11~17)

それは隠れた力、潜勢力であり、その発現の性格が人間にとって「好ましい」か「恐ろしい」かの違いが有るだけだ。(これはユングのマザーやアニマの両義性と対応する。)

「罪」と「穢れ」は区別されず、祭式の手順の間違いは双子の牛の誕生や兄に先立つ弟の結婚や嘘を吐く事などと同一線上にある。
穢れは物質的、実体的なもので近親者にまで及ぶ一方、受け渡したり払拭する事もできる。

日本でも延喜式の祝詞に収録される「国つ罪」において傷害、死体損壊、近親相姦、獣姦などと奇形、奇病、及び雷や昆虫による災害などが一緒にされている事が連想される。


ノイマン ⑤ ギリシャの魔女ゴルゴン

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インドのカーリーと同じくらい恐ろしい女神としてノイマンが挙げるのはギリシャのゴルゴンとアステカのコアトリクエである。
今回はゴルゴンと蛇の象徴的意味についてノイマンの主張と僕の考えを整理する。

ゴルゴン3姉妹は大地母神ガイアと海神ポントスの息子ポルキュスを父とし、姉妹である海の怪物ケートーを母として生まれた。髪は蛇で猪の牙と青銅の手、金の翼を持つとされる。(ポルキュスの3人の娘はゴルゴンとは別という説もある)

一説ではもともと見事な金髪を持った絶世の美女だったが末娘のメドゥーサが自分の美貌をアテナ女神に自慢したためアテナの怒りを買い怪物の姿に変えられた。またアテナ神殿でポセイドンがメドゥーサと交わったためアテナの怒りを買ったとの説もある。髪が蛇で見る者を石に変えるという伝説はかなり古いようだ。

一方セリポス島のポリデクテス王の奸計でメドゥーサの首を取って来る羽目になったペルセウス。アテナ女神の盾とヘルメスの翼を持つサンダル、被ると姿が見えなくなるハデスの帽子などの助けを借りてメドゥーサの首を切り、魔法の籠に入れてセリポス島へ帰る途中、エチオピアの王女アンドロメダが海の怪物の生贄として岩に繋がれているのを発見し、メドゥーサの眼の魔力を使って怪物を岩に変え、アンドロメダを救出したのはあまりに有名な神話で「ペルセウス–アンドロメダ型神話」という範型となっている。

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      メドゥーサの首を持って海の怪物と戦うペルセウスとそれを見守るアンドロメダ (ティツィアーノ作)


ゴルゴンは蛇と深い関係にある。髪は蛇であり蛇のベルトを巻いている。B.C.6世紀頃の古いゴルゴンは化け猫の様な顔と大きな口、牙の様な歯、長く出した舌が特徴だ。

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コルフ島 アルテミス神殿のゴルゴン

この舌は虎やライオン等の猛獣の舌であり、カーリーやバリ島のランダにも共通する。ノイマンによればこの舌は力動的エネルギーの象徴であり、男根的である。

口は「容器としての女性」の象徴連関で示した様に、暗い内部と外界を隔てる門という点で子宮と同じ意味を持ち、ヨーロッパのドルメン(支石墓)や日本の鳥居や中国道教の牌楼の様に装飾、崇拝される。

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        アイルランドのドルメン                             北京 白雲観の牌楼

口が息、言葉、ロゴスの生まれる場所であると同時に女性器が唇に準えられ、グレートウーマンの破壊的側面としては女性器が牙を剥き出しにした口という元型的な表象となる。北米インディアンの或る部族の神話では女性器に食肉魚が住んでいる。さらに蛇の牙は毒の出る所であり、陰湿な殺意と相手を飲み込む否定的マザーとの交点にある。
また唇を女性の、歯、牙を男性の象徴とする見方も可能である。

月を女性、太陽を男性とするのを原初的見方とすれば、次には月を夜の太陽、女性的太陽と見る見方も成立する。昼の太陽は毛状の力を放射し、夜の太陽は毛を失い、あるいは毛が蛇などに変化する。これはネガティヴな放射である。こうして死と禿頭、犠牲、去勢などの象徴連関が成立し、イーシスやカトリック司祭の剃髪も同じ意味を持つ。


蛇と歯と言えばギリシャのカドモス神話が連想される。一度簡単に触れたが、もう一度説明する。

クレタ島の牡牛に恋をするパシパエと怪物ミノタウロスの話が牛をめぐる呪いだとすれば、ゼウスに誘拐されたエウロペを探す兄カドモスの物語は蛇をめぐる呪いである。

カドモスは行方不明の妹エウロペを探す旅に疲れ果て、デルポイの神託に従って牝牛の後を追い、牝牛が休んだ地、ボイオティアに新しい都市テーバイを建設する。その際、森の洞穴にあるアレースの泉を守る多頭の大蛇に家来を殺され、カドモスは際どい戦いの末にこれを倒すが、アテナ女神の声に従い蛇の歯を大地に撒くとそこから兵士達(スパルトイ)が生まれ、彼等がテーバイ貴族の祖先となった。

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                                                 多頭の大蛇を殺すカドモス

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カドモスはアプロディテの娘ハルモニアと結婚したが、彼の子セメレーや孫のペンテウスが非業の死を遂げたのはエウリピデスの「バッコスの信女たち」で書いた通りである。http://blogs.yahoo.co.jp/bashar8698/38888885.html
カドモスとハルモニアは次第にポリスの市民から忌み嫌われ、テーバイから去る事になる。
これを蛇の呪いと理解したカドモスは「神々にとってそんなに蛇が大切なら私も蛇にしてくれ!」と叫ぶと言葉通りカドモスは蛇に変わり、妻のハルモニアも自ら望んで蛇に変身する。

  蛇になったカドモスと妻のハルモニア 
 (イヴリン・ド・モーガン)


蛇の歯から生まれたスパルトイがテーバイ貴族の祖先となる。僕はこの象徴的意味ががずっと分からなかったのだが、ノイマンの「口と子宮の同等性」の説、及びこの動画を見て理解できた気がする。
クレタのように蛇を両手に持って舞う儀式が有ったとすれば危険が無い様に牙を抜いたはずである。また蛇が大地母神、或いはさらに原初的なウロボロスの象徴だとすれば牙を大地に返すのも当然の事と頷けるものがある。テーバイ家はこの後もずっと蛇の歯の毒性を持つ呪われた家系となるのである。
インドのシヴァ神が乳海撹拌で蛇の毒を飲み干した事もシヴァ神の悪魔的側面と辻褄が合う。蛇の歯を大地に蒔くとは猛獣の野生や蛇の毒性を原初のウロボロスに返す事だ。
ゴルゴンはいろいろな意味でウロボロスの両性具有的特徴を備えている。蛇、歯、突き出した舌、時にはあご髭まで。

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僕は以前ウロボロスを「思惟と存在の循環」或いは「アーラヤ識とマナ識の循環」の意味で用いた。http://blogs.yahoo.co.jp/bashar8698/40584390.html

しかしグノーシス主義以来用いられてきた、そしてノイマンの言うウロボロスはもっと広い意味を持つ。  生と死、天と地、外界と人体、男性と女性、火と水、それらが未だ分離していない「原初の混沌」であり、宇宙を取り巻く蛇であり、永劫回帰する時間でもある。そしてウロボロスと似た意味で使われるのが「宇宙卵」である。

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                           上の図はこの方の素晴らしいブログからお借りした。

彼によればオルペウス教の原初の卵と蛇の創造神話に二通りあるが、その一つでは永劫回帰する時間としてのクロノスは多頭有翼の蛇で両性具有であり自己生殖して宇宙卵を生む。
永劫回帰はまさにウロボロスのイメージであり、それが多頭で両性具有である、つまり分裂を孕んでいる。これこそノイマンのウロボロスのイメージだっただろう。

このウロボロスは中国の霊獣「玄武」にも現れている。
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中国の霊獣「玄武」の意味もよく分からなかったのだが、上の宇宙卵に巻き付く蛇、そして下のインドの宇宙観(と言われた図)を見た時に何かが繋がった。

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蛇が動物に巻き付く事は相手を食べる方法だが、巻き付き、飲み込む事、これが原初の神話的思考の中では時間の進行や原初の暗闇への回帰をも意味するのではないか?「乳海撹拌」神話では巻いた蛇を伸ばす事が世界の大災害を生むと同時に自然の宝を得る事になる。
ヨーガではトグロを巻いたクンダリニーが解けチャクラが覚醒する。


中国では商王朝(日本で言う殷王朝)の時代から亀は占いに使われる霊獣であった。インドでは宇宙を包む神蛇の上に神亀、その上に神象が乗り、さらにその上に世界が乗っているという宇宙観が有ったとよく言われ上の様な図も書かれているが、それはこの資料にある様にどうやら嘘らしい。http://www.wakayama-u.ac.jp/~okyudo/delme/tenkyo/5-04-4.pdf
しかし「乳海撹拌」神話にある様に神亀が世界を支える支点という観念は有ったようだ。だから玄武は北でなければならない。

巻き付いた蛇が時間と関係する事は下のズルワーンの図を見る時、劇的に明らかとなる。
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ズルワーンはザラシュトラの改革以前のイラン宗教における「時間の主神」である。
ウロボロスが原初の混沌を表すように、蛇が巻き付き或いはとぐろを巻く事は時間の中での世界の秩序生成を表し、逆にそれを解く事は時間を巻き戻し世界を破壊する事、しかしそこから新たな神秘が生成する事でもある。

バッハオーフェンは「原初の卵」の象徴としての重要性を詳説したが(古代墳墓象徴試論)何故か「原初の蛇」の重要性を見過ごした。

ユングはグレートマザーの「全てを飲み込む」機能が蛇で象徴される事を見てとったが、それは「否定的マザー」に留まっている。

ノイマンはさらに根源的な蛇を見る。それは「潜在的対立を孕む原初的一体性」を表す。この説はシャーマニズムの多くが蛇信仰と関係ある事実を見ても根拠のある説だと言えるだろう。

これで初めて「復讐する蛇」「女神を守る蛇」「エロティックなファロス的蛇」「生贄を要求する蛇」などを全て考察する前提ができる。




ここでディオニュソスの記事から僕の中で問題になっていた「蛇の象徴的意味」をもう一度整理して暫定的結論を出してみたい。
「罪と穢れ」が一体の原始社会ではウロボロスとしての蛇は「相手を飲み込み生と死を包含する」大自然そのものである。それは恵みと恐怖の両方を与える理不尽な神であり、自然災害、雷、台風、川の氾濫、旱魃などの理不尽が生贄によって解決されると考える限り、善悪と穢れは分離しない。カーリー、ゴルゴンなどはこの段階にある。
倫理的な神が成立するに従ってウロボロスは男女の分離、肯定的マザーと否定的マザーに分離し、これ以後の蛇は否定的マザーの変容としての「復讐する大地母神」と豊穣のシンボルとしての男根、この二つの意味に絞られていく。バッハオーフェンの言うアマゾン的女性支配はこの「復讐する大地母神」の表出であり、ディオニュソス教はそれに原初のウロボロス的性格を残している。
蛇の両義性が倫理的神観念の成立と共に変わって来るという仮定である。差し当たってこんな結論にしておこう。この後、これと矛盾する神話が多く出て来たらまた考え直せば良いと思う。

ゲイリー・バートン &パット・メセニー 「Falling Grace」

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今日は静かなジャズを聴きたい気分なので。

以前ゲイリー・バートンとチック・コリアが良いコンビだと書いたがパット・メセニーとも相性が合うようだ。

と思ったらそれもそのはず、パット・メセニーはゲイリー・バートンに憧れ彼のバンドで数年間演奏していたゲイリーの教え子だそうだ。




初めて知ったのだが、ゲイリー・バートンは片手に2本ずつマレット(叩き棒)を持つ奏法を確立したイノヴェーターなのだそうだ。

しかし凄いテクニックである。

乳海撹拌 異論

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ここで分身のタヌキ博士君がインドの神話「乳海撹拌」について屁理屈をこねているので聞いてあげよう。
タヌキ君、どうぞ。


タヌキ博士:おほん、紹介いただいたタヌキ博士です。今日はインドの有名な神話「乳海撹拌」についての疑問を提起したい。
乳海撹拌ではマンダラ山を軸に、周りにヴァースキ竜王を巻き付け、両端を引っ張ってマンダラ山を回転させ、海を撹拌したと言われている。

しかし良く考えてもらいたい。円筒状の物に紐を巻き付けただけでは下図の上のように両端を引っ張っても軸は回転しない。
回転させるためには図の下のようにマンダラ山の中心に穴を開けてヴァースキ竜王を通し、穴の右と左で逆向きに巻かねばならない。お分かりかな?

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タヌキ君、ご苦労様。

ノイマン ⑥ 中南米の否定的マザー

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もう少し否定的マザーのイメージの拡がりを探ってみる。


壺や甕に死体を屈葬する習慣はエーゲ文明や小アジア、古代アメリカ、縄文時代の日本などに共通し、火葬文化における骨壷はその変形である。これらは全て貪り食う否定的マザーの側面である。



禿鷹、コンドル、カラス等は死体を食う「死の女神」であり、エジプトのネクベト、北欧神話のワルキューレ、常に肩にカラスを二羽止まらせているオーディンなどの表象になる。

しかし同じ鳥が「天高く飛ぶ」性質に注目すれば父権的な象徴とも見なされ、「鳥が蛇を喰う事」は父権が母権を、意識が無意識を圧倒する事を暗示する場合が多い。インドのガルーダとカドゥルー、アステカの蛇を喰う鷲などがそれである。



バヌアツ共和国のマレクラ島では父権的な光の神に対立する母権的な守護霊を「レ-ヘブ-ヘブ」と呼ぶ。それは母方の祖先の怒りを表現し、現地人の説明では「我々を喰うために引き寄せる」。それは1960年頃まで続いた人肉食と結びつき、蜘蛛、蟹(特にそのハサミ)二枚貝、向かい合った三日月などの形象で表される。

蛇が罪と穢れの分離していない時代には原初のウロボロス、倫理的神観念が成立してからは否定的マザーとなるのと同時に男根の象徴でもあり、男女どちらの意味も持ち得る事が神話的象徴を余計に複雑にしているが、鳥においても同じだという事だ。それに対し蟹、蜘蛛などはほとんど女性である。


<中南米の女神と供儀>

メキシコのマヤ文明は父権的な太陽信仰が母権的文化、月信仰を覆ってしまったが、ペルーのインカ以前に栄えたチムー王国(9~15世紀)では母権制と月信仰が残っていた。

チムー王国ではグレートマザーは「月の女」であると同時に「海の女」であり、海の底で貪り食う怪物である。それはイチョウガニの姿で殻にはゴルゴンの様な顔が有り、殻の上には星の神が乗っている。

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                           プレ・インカのチムー王国のイチョウガニ

蟹は「死体を喰う」「挟む」「闇へ逃げ込む」三つの性質で否定的マザーと、後の二つで月と結びつく。母権制と月信仰の関係がここでも確認される。またカニ・カタツムリ、亀も攻撃されて闇に逃げ込む月の神の象徴ともなり得る。



マヤの洪水の女神イクスケル(イシュチェル)は怒ると天の水瓶を逆さにして豪雨、洪水を引き起こす。怒りを鎮めるには生贄を捧げなければならない。イクスケルの頭には蛇が乗り、スカートには交差した骨が刺繍されている。しかしイクスケルの原義は「虹の婦人」の意味であり「月の女神」でもあると言われる。

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                                   マヤの洪水の女神イクスケル

エリアーデの「豊穣と再生」によれば月は満ち欠けの周期によって人間の「死と再生」という悲劇的な循環を共有する。カタツムリは殻から出たり入ったりする事で、また殻の渦巻きが子宮を象徴する事で、
蛇は月齢と同じ数のとぐろを巻き、脱皮して再生を繰り返すと考えられた事から月の同族である。

エスキモーでは若い女が蛇を見ると妊娠すると信じられ、アボリジニー神話では月が浮気者の男となって地上に降り女を孕ませてから見捨てると言われる。エジプトでは雌牛が月光によって孕み聖牛アピスを生んだ。蛇と月はどちらも女性を妊娠させる物という意味でも同族なのだ。

イクスケルの例から一つ重要な事に気づく。蛇が雨と洪水を起こし生贄を要求する神話は多くの例が有るが、それは単に神との互酬的交換というだけではなく、少なくともマヤの場合そこにもバタイユ的なエロティックな要素が絡んでいるという事である。前に古代的供儀に野獣性、互酬性、エロティックな同一化、復讐心の4重の心理構造を見たが、http://blogs.yahoo.co.jp/bashar8698/40516505.html?type=folderlist
それを修正するのに参考になるだろう。



マヤ、アステカにおける供儀は典型的なバタイユ的世界である。そこでは残虐とエロティシズムの恍惚状態の中で心理的同一化が起こる。

アステカの最古の大地母神チコメコアトルはトウモロコシの母だが、原義は「7匹の蛇」の意味である。トウモロコシは成熟度によって
① 子供の柔らかい時期・・・・シローネン
② 成熟した若者の時期・・・・センテオトル
③ 年を取り乾燥した時期・・・チコメコアトル
の3つの神の循環で表される。


アステカ神話で最も力を持つ女神テスカトリポカは「煙を吐く黒曜石」の意味であり、狩猟時代の矢尻やナイフに使われた黒曜石が魔術化して鏡となったものである。血の供儀を要求する恐怖のマザーが狩猟時代の観念を引きずる良い例である。

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         太陽の座を争って闘うケツァルコアトル(左)とテスカトリポカ(右)

テスカトリポカは後に太陽神とされるが、それ以前は闇の竜と戦う英雄であり、鎌状の武器、すなわち月であった。バヌアツのレヘブヘブと同様、三日月が武器としてイメージされている。これはエジプトやギリシャで牛の角を三日月に見立てるのと同じだ。

農業の時代に入るとそれはトウモロコシやメロン・サボテンのイメージと重なり豊穣の観念が狩猟時代の血の供儀と重なる。
トウモロコシの皮剥きは黒曜石のナイフで心臓を裂き出すのと等価である。しかしノイマンによればこの等式が成り立つのは本来のウロボロスの中で豊穣と死と供儀が結びついているからだ。



トウモロコシは大地母神の息子であり彼女を妊娠させる男根である。つまり母子相姦の観念と結びついている。母は死の女神として黒曜石のナイフを持ち、息子の四肢と性器を切断する。これは月が再生するための犠牲である。交接と殺害は等価である。流血と殺害の中で母子の同一化が起こるのである。

女性の生贄の場合はトウモロコシの女神とされた娘を断頭し、皮を剥ぎ神官がそれをまとう。これも同様の流血の中の同一化である。すなわち生贄の娘が妊娠した大地母神に、神官がトウモロコシの息子に変容すると同時に大地母神にも一体化する。

母神と若いトウモロコシ神が球技で石の輪にボールを通す事、子供の生贄の血で練られたパンで神像を作り矢で射抜く事、これらは全てエロティックな意味を持ち、生贄の心臓を切り出す事は出産と同一視される。

(以前カンボジア寺院の塔とツクシの相似の見事さを記事にしたが、これはツクシやトウモロコシを男性器に見立て、建築でも表現しようとしたのかもしれない。)

さらに注目すべきはアステカの供儀では娘と原初の母が同一と見なされる。トウモロコシの女神とトウモロコシの母の関係はペルセポネとデメテルの関係に等しい。つまりアニマとグレートマザーが供儀の中で同一化するのである。



この母子相姦の観念はグレートマザーの象徴的殺害、大地母神からの独立によって廃棄される。その表現がケツァルコアトルに典型的に見られる。それは羽の生えた蛇である。

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彼はテスカトリポカによって一度殺され、再生した者であり、文化と農耕の移入者でもある。つまり彼はギリシャのプロメテウス、中国の黄帝と同様の「文化をもたらす英雄」神と人間を繋ぐ者である。

しかし他方、贖罪の為に自分に火を放つ者でもある。この罪の内容は様々な伝説があり、一説では悪魔に酒を飲まされて気が狂い妹のケツァルペトラトルと交わった事と言われ、故郷を追われてイカダで放浪する。ノイマンによればこのケツァルコアトルの罪は自我が否定的マザーに負けた事を意味する。


ケツァルコアトルの「羽の生えた蛇」という表象も否定的マザーから離れて飛翔する鳥とそれを離すまいとする蛇のマザーの合体なのだろうか?


シュリーヴィジャヤ様式とは?

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7世紀後半、海路でインド留学を目指した唐の義浄は仏教王国シュリーヴィジャヤの繁栄ぶりに驚嘆した。唐帰国後に書いた「南海寄帰内法伝」によれば1000人以上の僧がおり、学問的にもインドに劣らない水準だったと記されている。彼はそこで5ヶ月滞在してサンスクリット文字を学んでからインドへ向かった。

インドのナーランダ僧院などで13年勉学した帰路、再びシュリーヴィジャヤに立ち寄り、今度は10年以上も滞在しサンスクリット仏典の翻訳に没頭した。義浄によれば当時シュリーヴィジャヤはインドと並ぶ仏教文化の大国だったのである。


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シュリーヴィジャヤは文化大国であると同時に貿易大国、軍事大国でもあった。スマトラ島を中心にマレー半島とのマラッカ海峡、ジャワ島とのスンダ海峡の二ヶ所を押さえる事によって唐からインドに到る中継貿易の利で巨万の富を得た。
また兵2万の動員が可能でジャンビ王国など周辺の国を征服し東南アジアの覇者となった。

8世紀後半にはジャワ島のシャイレーンドラ王国に押されていったん衰えるが、856年、シャイレーンドラの亡命王子バーラプトラを国王に迎えてから再び勢力を盛り返し、10世紀には全盛期を迎えた。

しかし11世紀に南インドのチョーラ王朝の侵略で衰退し、13世紀にクメールの属国となり、14世紀にはマジャパヒトにほぼ吸収され、15世紀には最後の王子パラメスワラがイスラム教に改宗、約800年の歴史を閉じた。

スマトラ島とジャワ島はシュリーヴィジャヤとシャイレーンドラの拮抗、仏教とヒンドゥー教の拮抗という二つの拮抗関係によって揺れ動いた。この二つの拮抗はどちらも対抗しつつ一部合体するという微妙なものだ。

シュリーヴィジャヤとシャイレーンドラは姉妹国家の様で一時は合体していたのかもしれない。また仏教寺院にもヒンドゥー神話のレリーフが見られたり、一つの寺院に仏教僧とバラモンが同居していた事も有ったらしい。

シャイレーンドラ王朝の遺跡としてはジャワ島に仏教のボロブドゥール寺院とヒンドゥー教のプランバナン寺院群が有る。(下図)

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                            ボロブドゥール寺院

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                             プランバナン寺院群

これに対しシュリーヴィジャヤの中心地スマトラ島のパレンバン付近には不思議なほど宗教美術が残っていない。シュリーヴィジャヤの美術は何故かスマトラ島よりタイに残っているのである。


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タイ南部のスラタニー県はタイ国を象に喩えれば(失礼!)鼻の真ん中あたりにある。


スラタニー県のチャイヤー郡はシュリーヴィジャヤの中でも首都パレンバンに次ぐ大都市だったらしい。学者によってはチャイヤーこそシュリーヴィジャヤの首都だったと主張する人もいる。その主張は文化遺産の残り方を見るとそれなりに説得力を持っている。
また義浄が10年滞在したのもパレンバンではなくチャイヤーだったのかもしれない。


チャイヤーにあるボーロマタート寺院の仏塔は世界でも珍しいシュリーヴィジャヤ様式である。8世紀に建設されたが20世紀にタイ国王が再建、増築したもので中央の仏塔は元のシュリーヴィジャヤ様式をそのまま再現したと言われている。

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ヒンドゥー建築のプランバナン寺院に似ているが、より簡素であり、開放的で明るい印象を受ける。


またバンコク国立博物館にはシュリーヴィジャヤ様式の観音菩薩像が一部欠損しながらも残っている。

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シュリーヴィジャヤ様式はインドのグプタ様式の影響が大きいと言われているが、少なくともこの観音像は日本の白鳳様式に近いと思う。
下の薬師寺日光菩薩との類似ぶりはどうだろう。

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この前書いたように白鳳美術は初唐様式であり、さらに西域の流動美の影響が見られる。これはまたインドのアジャンター石窟寺院の壁画から中国・朝鮮を経て法隆寺金堂の壁画へと伝えられた流動美でもある。

僕はグプタ美術というものを再考しなければならないと思っている。アジャンターのセクシーな流動美は他のグプタの仏像・仏画にはほとんど見られないものだ。

アジャンター、敦煌、シュリーヴィジャヤ、法隆寺、これらを繋ぐ線は未だに解明されていない。


ノイマン ⑦ 運命と生命の木としての女神

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読者の多くはそろそろノイマンにも飽きてきた頃だと思うが(実は僕も  笑)やはり彼はユング派神話学の原点であり、その後の元型派のヒルマンやフェミニスト神話学などもノイマンをたたき台にしノイマンを批判する所から生まれているので全体像がつかめるまで続けたいと思う。もう少しお付き合い願いたい。


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母権社会では空間、時間ともに女性的なものと見なされる。空間は原初の自然を包み込む物である故に女性であり、時間も水と同様に流れるものである故に女性である。ティアマトが持つ「天命の書版」の様に運命を司るのも女神である。

運命の女神は空間と時間が相互に関係する占星術に象徴される。
グレートマザーは時間の主人である故に月の神でもある。月の運行と満ち欠けは原始時代の正確な時計だからだ。

機織りや糸紡ぎも生命を紡ぐ女性の秘儀である。糸の交わりは性的結合の暗喩であり、糸を紡ぐ事は運命を紡ぐ事でもある。
機織は運命の女神の、従って娘ではなく母親の仕事である。

「臼を挽く事」や「材料を焼く事」も機織りと同様、グレートマザーの原秘儀である。それは穀物の神の死であると同時に子に食物を与える生命活動でもある。生命の輪を回す事は苦悩の輪廻でもある。


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女性性の変容の第一は前に示したように「養育する事」(=養分を与える事)であり、その例としてノイマンはエジプトのハトホル、北欧神話のイグドラシル、ユダヤの生命の木を挙げている。

エジプトの女神、ラーの妻にしてホルスの母ハトホルは愛、美、豊穣、幸運、ホルスに乳を与える牝牛など様々なイメージを持つが、本来は「母性」の象徴である。

後にオシリス信仰が主流になると死者を養う女神となり、冥界へ行く者にパンと乳とイチジクで作った食べ物を与える役割を担い、「イチジクの木の貴婦人」と呼ばれる。

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ハトホルは上図の様に牛の角の間に太陽を挟んだ形象で表される。
牛の角は三日月であると同時にイチジクの木の頂であり、毎朝木の養分を与えられた太陽が誕生する場所である。

しかし否定的マザーでは三日月が首を狩る武器ともなっていたのは前回書いた通りである。ハトホルは生と死の両方に関わりエジプトでは太陽神ラーは毎夕死んで翌朝再生すると考えられた。




北欧神話に説かれるイグドラシル(世界樹)は木の神話的意味を良く表している。

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これは日本人にはあまり知られていないと思うのでまず一般的な説明をすると、

イグドラシルは世界を覆うトネリコの木である。大きな根が3本あり、それぞれ霜の巨人の国ヨツンヘイム、人間の住むミッドガルド、死者の国ニフルヘイムに伸びている。枝の頂にはアース神族の国アスガルド、ヴァン神族のヴァナヘイムが乗り、途中には妖精の国アルフヘイム、小人の国ニダヴェリールなど、九世界の全てがイグドラシルに含まれる。

根元の近くには運命の女神ノルンたちのウルズの泉、巨人ミーミルの泉、毒龍ニドホグが棲むフヴェルゲルミルの泉の三つの泉がある。
ノルンたちはイグドラシルが枯れないように水をかける事で運命を左右する。ノルンたちは個人、民族から世界の運命まで決定する。

ニドホグは「怒りに燃えてうずくまる者」の意味で、イグドラシルの三つの根の一つを齧っている。


ノイマンによれば木が地下に根を下ろしている事は、意識が無意識に根差し、天が闇夜に根差しているという意味を持つ。世界樹は太陽が輝く昼の空よりも夜空と星のイメージに接近する。

運命は「永遠の生成」であり、糸を紡ぎ縦糸と横糸を織る事である。運命の神は女神である。ノルンたちがイグドラシルに注ぐ水は子宮から溢れる生命力だが、また彼女は運命の糸を残酷に切ったりもする。
ここで木は生と死の総体を表している。




カバラーの生命の木については神秘主義をかじった人は皆知っているだろう。

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知恵の木の実を食べてエデンから追放されたアダムとイヴの子孫は生命の木の実を食べる事でエデンに帰れるのである。この「知恵の木」と「生命の木」は対になって生と死を表す。

クリスマスツリーの起源は8世紀のドイツに由来すると言われる。
ゲルマン人が樫の木を信仰し幼児の生贄を捧げる習慣があり、また一説ではその習慣は本来ドルイド教に淵源するとも言われ、それをキリスト教の神父が無害な物に変えたと言う。

しかし多説ではそれはキリスト教の異教迫害のための作り話であり、実際には知恵の木と生命の木を背景にした演劇から来ているという説もある。しかしどちらにしてもクリスマスツリーが生と死のドラマと関係するという点では変わりない。

ツリーにロウソクをつける習慣はマルチン・ルターがクリスマスを祝う儀式を終えた帰り道、木の枝の間から多くの星が煌めいていた景色に感動しそれを再現したものと言われる。それがライトに変わったのはもちろん火では危ないからである。

ルターのエピソードも作り話かも知れないが、生と死を表す木が昼の空ではなく夜空に由来するというノイマンの説を裏付けるようだ。


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ここからは僕の感想である。

運命の強烈な自覚はヤスパースの指摘する通り実存に目覚める事であり「限界状況」と直面する事によって発現する。しかしそれをマックス・ヴェーバーの様にマクロ的な、或いは階級的な目で見れば、それは常に死と隣り合わせにある軍人の精神構造であるとも言える。

「バガヴァド・ギーター」の中心テーマは、カルマの法則の普遍性を存在根拠とするバラモン階級の意識と、「不条理な死」と常に戦わねばならない軍人の意識との相剋であり、その二つの世界観を如何にして調停するかという事である(とヴェーバーは見た)。

またリグ・ヴェーダに見られる原始的アニミズムの生気循環論とウパニシャッドのペシミスティックな「業と輪廻」説の間には断絶が有り、それはデカルト的コギトの自覚であり、長い間続いた部族間戦争の時代のペシミズムが大きく影響しただろう事は以前ライプニッツの記事で書いた。

ギリシャ悲劇においてもニーチェが想像した通りディオニュソス的ペシミズムが根底にあり、それは暗黒時代の凄惨な戦争と関係があると僕は考えている。

この様な僕の問題意識から見るとノイマンの説は楽天的、アニミズム的な生気循環論とウパニシャッド的、ニーチェ的な運命論を一緒にするものと考えられる。

それは「実存主義と生命主義の統合」という僕の最終目標でもあるのだが、これまでのノイマンの説明では簡単に統合し過ぎていて未だ納得できないものが有ると言わざるを得ない。

そしてこれはノイマンが否定的マザーの「相手を飲み込む蛇」と「復讐する蛇」(バッハオーフェンがアマゾン的支配として詳説したもの)が一緒になっている事とも関係あるように思われるのである。

これもまたノイマンモデルを修正する時の一視点となるだろう。



パレストリーナ 「教皇マルチェルスのためのミサ曲」第二曲 グローリア

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すっかり忘れていたが今日はクリスマスイヴだった。(笑)

自分が仏教徒であると自覚してからクリスマスを祝う習慣は無いのだが、思想としてのキリスト教は好きだしバロック音楽はある意味で僕の精神的故郷である。意地を張らないでクリスマスの日くらいはクリスマスらしい曲を聴いてみようか。

「教皇マルチェルスのためのミサ曲」はパレストリーナの最高傑作と言われているが、その中の2曲目、グローリアである。これはよく聴くともはや対位法とは言えないようだ。グレゴリオ聖歌の和声的発展でありカッチーニやモンテヴェルディと同じ方向を目指している。



歌詞は次のような意味である。

崇高なる創造主に栄光を
そして地球の良き意思を持った人々に平和を
あなたを褒め称え、祝福し、崇拝し、賛美します
私たちはあなたの偉大なる栄光に感謝します
創造主よ、天空の主よ
全知全能の大いなる父よ
主よ、たった一人の大いなる父の息子よ
イエス・キリスト、主よ、神の羊よ
大いなる父の息子よ
世の罪を請け負った汝よ
慈悲をお恵みください
世の罪を請け負った汝よ
どうか受け取ってください
祈りを受け取ってください
創造主の横に座される汝よ
慈悲をお恵みください
なぜならあなただけが神聖であり
あなただけが主であり
最も尊い存在なのです
イエス・キリストよ
聖霊とともに
天の父に栄光を、アーメン
天の父に大いなる栄光を、アーメン


いかにも教条的なイエズス会らしい言葉だが、考えてみれば大衆を扇動し社会を動かすのはほとんど常にこの教条的信仰のエネルギーだ。イエズス会、カルヴァン主義、再洗礼派、千年王国論、そしてマルクスレーニン主義・・・・・

ドイツの詩人ハイネは「汎神論に基づくドイツ市民革命」を夢想したが所詮無駄な事であった。強力な教条主義が社会を動かし汎神論や神秘主義は保守主義に傾き易い。これも神の摂理だろうか?


忿怒の仏

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シヴァ神とカーリー神の話が出た所で、その仏教版とも言える明王、特に「降三世明王」(ごうざんぜみょうおう)について。

明王は密教特有の「変化(へんげ)の仏」である。それは慈悲だけでは救済できない衆生を「怒り」によって正しい方向へ導くと言う。


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五大明王は「仁王教」の内容から空海が定めたようで、不動明王を中心に降三世明王、大威徳明王、軍荼利明王、金剛夜叉明王をそれぞれ東西南北に配している(上の図では右上が北)。

初めは鎮護国家的な役割を期待されたが、後に息災・増益など個人的な現世利益の目的でも信仰されるようになった。



四方に配し仏を守ると言えば四天王もそうだった。

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天と明王はどう違うのかと言うと、天は仏教を「武力」で滅ぼそうとする者から「武力」で仏を守るのに対し、明王は「怒り」という手段を使いながらあくまでも衆生の悪いカルマを消滅させるものである。
四天王の闘いは外面的で五大明王の闘いは内面的なものである。


五大明王の中でも比較的分かりやすいのが下の降三世明王である。これは貪瞋痴の三悪を潰すための明王、つまり本来の明王である。
画像をいろいろ検索して僕が最も恐ろしく感じたのは福井県小浜市の明通寺のものである。

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多面多臂の形象や下に何者かを踏みつけている姿勢はシヴァ神やカーリー神にそっくりだ。


同じ姿勢はチベットのマハーカーラにも見られる。

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                                                 チベットのマハーカーラ

本来はシヴァ神が悪魔を踏みつけ、カーリー神がシヴァ神を踏みつける姿だったのが仏教ではヒンドゥー教の神を踏みつける形に変わったのだそうである。

何故怒りの感情を最も戒める仏教でこの様な「忿怒の仏」が生まれたのか、ノイマンを読んで少し解りかけてきた所だ。

                       

ヴィヴァルディ・テクノ

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ヴァネッサ・メイはシンガポール出身のヴァイオリニストだが、タイ人の父と華僑の母を持ち国籍はイギリスというハイブリッド・ウーマンである。そして奏でるヴァイオリンもまたハイブリッドだ。

「クラシックとロックの融合」というのはイギリス人が大好きなテーマで結構古くからあるのだが、成功例はそんなに多くはない。

ヴァネッサでもバッハやベートーヴェンでは悪趣味しか感じなかったが、このヴィヴァルディは気に入った。おそらくヴィヴァルディはバロックの中でも幾何学的でギザギザなメロディーがロックにし易いのだろう。

カンフー少女の山本千尋でも思ったのだが、このヴァネッサ・メイでも「天は二物を与えず」と言う格言は間違いである事が解る。苦笑

僕はもともとこういうフュージョンは嫌いではない。グレゴリオ聖歌をロックにした物なども有るようだ。少し良いのを探してみようか。

ノイマン ⑧ 木の変形

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前回は木が生と死、犠牲と再生の共存する領域であり、基本的に母性的象徴だが時には男性の象徴ともなり得るウロボロス的性格を持つ事が確認された。今回は木の象徴の変形、その周辺に目を拡げる。

ノイマンは木の変形として絞首台や十字架や舟を挙げ、舟はさらに揺りかご、挽臼などに変形されると言う。

木に吊るされた者は木を母とする息子であり、母は死と不死を与えるソフィアである。キリスト教の十字架はこの世に罪をもたらした知恵の木と重なり、キリストは生命の木の神秘の果実である。

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                              木への信仰が現れるゴシック大聖堂の柱

またモーセの伝説にある様に舟、揺かごもグレートウーマンの容器象徴に属する。月は夜の海に浮かぶ舟であり女神のランプである。
舟は容器としてだけでなく「海に浮かぶ」という機能、さらにその曲線美も女性を象徴している様に見える。

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                            美しい曲線美を持つヴァイキング船

キリスト教では舟は至上の幸福、教会、誘惑に対する防衛等を表している。この場合、帆柱はキリストが架けられた十字架である。

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                      十字架のマストの船(15世紀イタリアの古文書)

舟は「死の舟」でもある。古ゲルマン人やアメリカ北西部インディアンは舟で死体を埋葬した。また古代日本やポリネシア、ミクロネシア、メラネシアにも舟葬が有った事が確認されている。
死体を海へ送り出す事は母なる海へ返す事である。


挽臼については少し説明が必要だろう。北欧神話の挽臼グロッティの話を要約すると・・・・

デンマーク王フロージはスウェーデン王から譲り受けた巨人の女奴隷フェニヤとメニヤに人間の力では回せないほど大きな挽臼グロッティを毎日回すよう命じた。

グロッティを回すと願う物何でも生み出す事ができ、フロージ王はフェニヤとメニヤを使って黄金、平和、幸福を挽き出し、彼女たちに休憩も睡眠も与えなかった。2人は復讐に挽臼から海王ミューシングの軍勢を生み出し、ミューシングはフロージ王を殺して金品を奪い去った。

2人は海王ミューシングに助けられ挽臼と共に船に乗せられたが、今度はミューシングが2人をこき使うようになった。
ミューシングは2人に挽臼を回して塩を出させ売ろうと考え、欲張って舟が塩でいっぱいになってもまだ臼を回させたので船は海中に沈んだ。挽臼は海底でも回り続け、その時から海は塩辛くなったと言う。

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      挽臼を挽くのに疲れ果てたフェニヤとメニヤ(カール・ラーション作)

前に蛇が巻き付く事やトグロを巻く事が時間と関係している事をインドの乳海撹拌やイランのズルワーンの例で説明したが、ブロ友に教えられてさらに問題がはっきりした。巻かれる時間とは円環の時間、女性的な時間であり、直線的、男性的、砂漠宗教的な時間と対立する。挽臼グロッティの神話もそれを示している様に思われる。

ウロボロス性を持つ木は男性の象徴ともなり、また木に絡みつく蛇や蔓として現れる事もある。魔女メディアがイアソンを案内した金羊毛の掛かった巨木を守る大蛇、旧約聖書でエデンの知恵の木に絡みつくサタンの蛇など。

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                             金羊毛を守る大蛇を薬で眠らせるイアソン


木は「生命と成長が大地に拘束されている生命の段階」に属するというのがノイマンの見方である。これは前回書いた「意識が無意識に根差し、天が闇夜に根差している事」とも対応している。

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ここで僕が連想するのはムカシホヤの事である。
ムカシホヤは「半索動物」と言って脊椎動物の祖先なのだが、不思議な事に幼生がオタマジャクシの形で泳ぎ、成熟すると口を岩盤に着けてイソギンチャク型の生物に先祖返りしてしまうのである。この様な例を「ネオテニー」(幼形進化)と言う。

三木成夫の言葉によれば「脊椎動物とは、この半索動物の幼生がそのまま性成熟を起こし、性物質を放出して個体の一生を終えるようになったものを言う。」

植物は根から水分と栄養分を吸い上げる。ムカシホヤの場合は口の位置が少し横にズレるだけで岩盤生活になっても基本的な体制は変わらない。ムカシホヤの場合は口側が根側となる。

しかし海綿やイソギンチャクは植物の花に当たる触手の根元に口がある。

植物型と動物型、両方を経験する動物にもう一つクラゲがある。クラゲは胞子の様なプラヌラからすぐに岩盤に吸着しポリプ、ストロビラを経て浮遊するエフィラとなる。この場合もイソギンチャクと同様、岩にくっついていた反対側が口だ。

動物の口と植物の根の関係がムカシホヤとクラゲ、イソギンチャクで逆になっている。あれっ、どっち側が口だ? ここで植物動物は迷う事になる。

動物はその後、原口陥入した側が口になる前口動物と原口が肛門になる後口動物に分かれる事になる。この厄介な進化の分岐はこの時の植物動物の迷いにあると僕には思われる。

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