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これはビックリ

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リチャード・コシミズ氏、ヤフーブログも作っているんですね。

彼の説は同意できる点とできない点があるのですが、参考になる記事も多いので一応お気に入り登録しておきました。(笑)

井上陽水 「リバーサイドホテル」

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井上陽水の「リバーサイドホテル」が幽霊の男女を描いているのではないか?或いはこれから心中するつもりの男女ではないか? などの解釈がネットで見られる。初めは考え過ぎだと思っていたが、歌詞を何度も読むとやはりそう考えるのが一番自然のようだ。


カチカチとなる前奏のドラムとギターは昔の時計の秒針の音を連想させる。時の流れる音が周りの沈黙を際立たせる。



>誰も知らない夜明けが明けた時  街の角からステキなバスが出る

二人は誰にも知られずバスに乗る。この「コミュニケーションの欠如」が曲全体を貫く主調となっている。二人の間に会話は無い。二人とバスの乗客、二人とホテルのフロント、全てに会話が無い。



>若い二人は夢中になれるから
>昼間のうちに何度もキスをして

バスの中の二人には暗い表情は見られない。
恋に夢中なのだ。しかし・・・・・



>狭いシートに隠れて旅に出る

シートに隠れる事なんてできるのだろうか? 
彼等にはできるらしい。何故?
 


>行く先を尋ねるのに疲れ果て

二人は周りの乗客にバスの行き先を尋ねるが誰も答えない。
二人は周りからは見えていないから。



>そこで二人はネオンの字を読んだ

ネオンの字は「リバーサイドホテル」 二人には見覚えが有った。
当然である。二人が首を吊った所なのだから。



>チェックインなら寝顔を見せるだけ

これは不気味な表現だ。寝顔、目をつぶった顔だ。
チェックインの時だけ目をつぶるのだろうか? まさか。
二人はずっと目をつぶっているのだ。



>部屋のドアは金属のメタルで

「夜明けが明けた」「金属のメタル」など無意味な繰り返しがこの歌のシチュエーションの不思議さを物語る。



>洒落たテレビはプラグが抜いてあり

このホテルは今は無人の廃屋となっているらしい。
それなら顔パスのわけである。



>ベッドの中で魚になった後  川に浮かんだプールでひと泳ぎ

熱い抱擁の後プールで身体を冷ます。素敵だね。と思いきや・・・・
ん? 「川に浮かんだプール」って何だ?
考えるとゾッとするものがある。
現実の光景に霊界の光景が重なっているかのようだ。
そう考えるとこの曲全体を貫く不思議な沈黙、「コミュニケーションの欠如」は現実世界と二人のいる世界との断絶を表しているのだと気づく。


>どうせ二人は途中でやめるから  夜の長さを何度も味わえる

このままでは意味不明である。敢えてこじつければ・・・・・
この透明な二人のデートは何度も繰り返されているのだ。(!)





透明な二人は死によって中断した最後のデートが心残りで反復強迫のように何度も同じ「死のデート」を繰り返す。しかし何度繰り返しても夢の続きは無く、再び同じ所で中断してしまうのだ。

そこに恨みや悲しみは微塵も感じられない。むしろ軽々と、ダンスを踊るように、「死のデート」は繰り返される。その辺が陽水らしい。








バッハオーフェンの中心軸、太陽と大地

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「プルターク英雄伝」で知られるプルタルコス(AD46~127年頃)は帝政ローマ時代のギリシャ人である。彼はデルポイ神殿の司祭であると同時にプラトン主義の哲学者、歴史家であり、ギリシャ・ローマ神話とエジプト神話を総合するのに貢献した。
http://morfo.blog.so-net.ne.jp/2011-05-07-1

彼は例えば下のようにエジプトの神とギリシャの神を対応させた。

エジプト神話                   ギリシャ神話
太陽神ラー・・・・・・アポロン
大地の神ゲブ・・・・・クロノス
天空神ヌト・・・・・・レア
伝承の神トート・・・・ヘルメス
冥界神オシリス・・・・ディオニュソス
悪神セト・・・・・・・テュポン

バッハオーフェンはプルタルコスの解釈にさらに「父権制と母権制の闘争」を重ねて見た。これは大地から月を経て太陽に至るエロスの発展段階論であり同時にそれが土地、財産、相続のシステムと内的関連を持つものとして分析されている。

バッハオーフェンは相似象の感覚を頼りに直感的飛躍をしている。僕も一度バッハオーフェンの説を整理した上で、彼が着地した地点からさらに飛躍してみたい。



先ずはバッハオーフェンの説を整理する。(ただし意味連関の不明な点は僕の推測により解釈してある。)

母権制の基礎に有るのは「大地母神」の観念であり、それは農業と生殖、出産の相似象に根拠を置く。

大地を子宮に、雨を精子に見立て、母なる大地に物質的根拠を置く自然法を法の基礎とし、女王に最高の宗教的権威を認める。エジプトの場合のように王は男でも王位の継承が母系を辿り、王妃に宗教的権威の源泉が有ればやはり母権制である。

母権制から父権制への移行は物質から精神へ、自然法から市民法へ、水から火へ、火から光へ、混沌から多様な秩序へという神学的な発展の中に位置付けられる。

新プラトニズムでは分離を経て再び高度な統一を回復する事に神への帰還を見るが、バッハオーフェンも究極的には市民法を経て最後には再び自然法が復活するとしている。しかしその最後の自然法のヴィジョンは具体的でなく、むしろ分業、多様性の進展が進歩と見るアダム・スミスやスペンサーに近い構図となっている。今後その構図の新プラトン主義的、ユング的、フェミニズム的修正を検討する予定だ。

大地、月、太陽もその発展図式に対応し、アプロディテは大地に、デメテルは月に、アポロンは太陽に対応する。母権制と父権制の闘いは太陽と月の大地に対する支配権の闘いであり、「太陽が月を支配する」という天体モデルを実現する事で「天上と地上の一致」という宇宙の摂理に適う事になる。

母なる大地の極は混沌の泥土であり、対する父性の極には太陽の光が有る。植生は原始的な低湿地の自生的植物から灌漑を伴う果樹栽培と牧畜へと進化する。それは泥土から水と土が分離する事だ。

日本の様に低湿地の特性を生かした水田耕作を発達させてきた農業もあるが、日本神話でも天沼鉾(あめのぬぼこ)で泥海をかき混ぜ、滴り落ちたものが積もってオノゴロ島となったとの記述が有り、土と水の分離が生産であるという認識は有る。

バッハオーフェンの独特な所はこの「泥の混沌」と「原始的乱婚制」と「湿地帯の自生植物」の間に相似象を認めた事である。

アプロディテに象徴される乱婚制では誰が父親か分からないため、母子関係だけが物質的な基礎を持ち法的にも安定したものと見なされ、母権制はまさにここに根拠を置く。従って母性が宗教的権威を持つ事は裏を返せば娼婦制の側面を持っている。

バッハオーフェンの解釈では大地は女性だが海と水は男性である。
アプロディテ的女性支配の下での男性原理は未だに水(ポセイドン)であり、泥土は女性としての大地に男性としての水がしみ込んでいる状態であると言う。

何故アプロディテ時代の男性原理は水なのか? それは大地母神が同時に娼婦であるのと同じ理由で、男は不特定多数の「精子」でしかないからだ。父と子の関係は存在せず、物質的基礎を持つ母子関係の周りを取り巻く水や空気でしかない。

父性原理はアプロディテ時代の水からデメテル時代の火を経てアポロンの光へと昇華する。バッハオーフェンの発展段階論は太陽と大地、光と泥土を両極とする座標軸であり、アポロン、デメテル、アプロディテなどもいわば極限値としての象徴であり、分割された領域を示しているわけではない。例えば
デメテル的女性支配の段階ではまだ水としての側面も引きずっている。

その例としてリュキアの英雄ベレロポンもアマゾンには勝利したが母権制そのものには屈した事でやはり彼の男性原理は水の段階と解される。

オイディプスをはじめとするテーバイの貴族は龍の歯を大地に撒いた時に現れた兵士たちスパルトイの子孫である。彼等は龍の種族であり湿潤の地中に棲む蛇ラドンによって生命を吹き込まれる。龍や地の湿度が水と関連している事は言うまでもない。

オイディプスに謎をかけるスピンクスも龍テュポンの子であり、母なる大地の象徴である。父を持たず母だけを知るスパルトイの龍の一族はスピンクスを支配者と崇める。



太陽と大地、光と泥土、火と水の対比によるバッハオーフェンの図式はプルタルコスのプラトン主義に大きく影響を受けているようで、ヘレニズム時代の神秘主義の多くの流れ(エレウシス、キュベレー、オルペウスの秘儀など)に共有された認識だったのかもしれない。
ヘルメス文書にも同様の発想が見られる。部分的に転載する。

>光からは〔欠損〕聖なるロゴスが自然にのしかかった。すると無雑な火が湿潤な自然から上方へ、高みへと跳び立った。〔その火は〕軽快にして迅速、同時に能動的で、また大気は、軽いので、霊気についていった、〔すなわち〕それ〔大気〕は土と水を離れて火の〔ところ〕まで上昇し、あたかもそれ〔大気〕があれ〔火〕からぶらさがっていると思われるほどであった。ところで、土と水は互いに混じりあい、土は水から見分けられないほどであった。しかし〔混じりあったものは〕、覆っている霊的ロゴスによって聴き従うものへと動かされていた。
土は女性的なものであり水は男性的なものであった。さらに火からの成熟と、天空からは気息(プネウマ)を取って、自然は人間の像にならって諸身体を産出した。
 ・・・・「ヘルメス・トリスメギストスのポイマンドレース」より
http://web.kyoto-inet.or.jp/people/tiakio/urchristentum/ch_index.html

この「ポイマンドレース」では神とデミウルゴスが対比され、神が創った命、光、両性具有の人間と、デミウルゴスが創った火と霊気、自然の感覚世界、運命、ロゴスなき動物の葛藤が描かれる。両者の関係が相克と相生のアンヴィバレントな性格を持つのは神とデミウルゴスが二にして一だからである。神側の人間とデミウルゴス側の自然は恋をし、そこで生まれた物に初めて性別が生じる。土は女で水は男となる。

これが単なる比喩だと考えれば、新プラトン主義、グノーシス主義からドイツロマン派、バッハオーフェンを経てユング、シュタイナーに至る象徴主義の体系は全部無に帰すだろう。僕はもちろん単なる比喩だとは考えない。ここにはより一般化できる奥深い相似象があると考えている。

泥土は砂と水のコロイド状態である。それは火や光によって乾かされ砂つぶになる。乾いた砂は炭酸塩、ケイ酸塩などの結晶である。サラサラした砂はドライな人間関係に、ドロドロのコロイドは湿った人間関係に対応する。これがただの比喩でないのは意味連関が何重にも重なっているからだ。

日光の強い砂漠気候では乾いた砂がどこまでも続き、人間関係は激しく衝突するドライなものになりがちで、泥土のモンスーン気候では人間の性向が日本や東南アジアの様にウェットである場合が多い。

砂漠気候では宗教は超越神の一神教となり直線的な規範意識、直線的な歴史意識を形成する。それは直線的な結晶構造と相似象をなしている。モンスーン気候では宗教は多神教となり易く循環する生命観、輪廻転生や「和」を尊ぶ温順な道徳と結びつく。それはコロイドの球形や多重構造と相似象をなす。


以後は次回に・・・・・






ヴィクトリア 「おお大いなる神秘」

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             おお大いなる神秘、
             また賞讃すべき秘蹟
             動物たちは見た
             飼い葉桶に横たわる
             生まれたばかりの主を。
             おお 幸いなる乙女は
             胎内に宿す光栄を得た、
             主イエスキリストを。
             アレルヤ


トマス・ルイス・デ・ヴィクトリア(1548 ~ 1611)はルネサンスからバロック初期にかけてのスペインのポリフォニック音楽の大家でローマのパレストリーナと双璧をなす。

透明でより和声的なパレストリーナに対しヴィクトリアはより激しい情念を感じさせるというのが専門家の評価だ。
しかしこの曲に関して言えば、ほとんどパレストリーナと変わらない透明さを感じさせる。

ペルゴレージ 「悲しみの聖母」

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ジョバンニ・バティスタ・ペルゴレージ(1710 ~ 1736)は古典派に分類されるオペラの作曲家だが、彼の最後の作品「Stabat Mater」(悲しみの聖母)はバッハの教会カンタータを彷彿させるバロックの楽曲である。

詩は13世紀フランシスコ会修道士のヤコポ・ダ・トディの作と伝えられ、毎年2回行われる「聖母マリア7つの悲しみの記念日」のミサにおいて歌われるそうだ。




詩の和訳を下に示す。聖母マリアの身を焼かれる様な苦しみ、悲しみを共有したいという「COM-PASSION」の感情に貫かれている。


御母は悲しみに暮れ涙にむせびて御子のかかりし十字架のもとに佇んでいた
嘆き、憂い、悲しめるその魂を剣が貫いた
おお、神のひとり子の祝されし御母の悲しみと傷のほどはいかばかりか
御子が罰を受けるのを見てどれほど悲しみ、苦しみ、おののいたことか
かくも責め苦を負う救い主の御母を見て、嘆きをあげぬ人がいるだろうか?  
かくも御子とともに苦しめる救い主の御母を見て悲しまぬ者があるだろうか?
人々の罪のためにイエスが責められ鞭打たれるのを見られた
愛しい御子が苦悶の中に息絶えるのを見られた
さあ、御母、愛の泉よ、私にもその悲しみを感じさせ、共に悼ませてください
私の心を神なるキリストへの愛に燃やしその御旨にかなうものとしてください
聖母よ、十字架にかかりし御子の傷を私の心にも刻みつけてください
私のために傷つけられ苦しみ耐えた御子の栄誉を私にも分けてください
私の命ある限りあなたと共に真に嘆き、磔刑を苦しませてください
私はあなたと共に十字架のもとに立ち共に悲しみます
乙女の中のいと清き乙女よ、私を退けることなく共に嘆かせてください
キリストの死と受難を知らせ、共にその傷をしのばせてください
私にも傷を負わせ十字架と御子の血にて私を酔わせてください
審判の日の火焔と炎熱の中より、乙女よ、御身によりて守ってください
十字架で私を守りキリストの死で私を支え、恩寵によりて慈しんでください
肉体が死するとき魂に天国の栄光を与えてください。
 

この曲を聴いて初めて気付いた事がある。メロディーを重ねる時にわざと不協和の半音程や二度音程を使うのは、単なる経過音、解決されるべきテンションではなく、その不協和自体が悲痛、苦痛の表現なのだ。

両性具有者の月

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前回は太陽と大地を両極とする中心軸の象徴が重層的な意味連関を持ち理念型として安定している事を確認した。今回は太陽と大地の中間者としての月の象徴性を検討する。

月は「天空の大地」と見なされ、太陽と大地の中間的存在である。
デメテル的女性支配が婚姻制においてアプロディテ的乱婚制に鋭く対立するように、月は天界の大地として地下的大地に対立する。


<女性としての月>

古代エジプトでは太陽は男神オシリス、月は王妃イシスと見なされたが、バッハオーフェンはこれをデメテル的母権制の典型と見なす。
母性が大地から月へ移行するのである。大地母神は土(大地)であると共に月でもあるという二重の性格を帯びている事になる。


バッハオーフェンはこう表現する。
>もともと大地という物質の内部では結び合わされており、初めて出産によって分けられたもの、つまり男性と女性は、天界では二つの独立した天体を割り当てられる。女が物質的な月であるのに対して、男は太陽であり、その非身体的な火としての性質を帯びる。

男と女はいまや「水と土」ではなく「火と水」の関係である。女性は泥土の水を引きずり、男性が不特定多数の精子(水)から火へと進化した事を意味する。

月は夜を支配し、太陰暦の基礎であり、また月の満ち欠けが生物の性的なリズムと連動し、生成と消滅の循環を表す。

前にも書いた様に、ダイアン・フォーチュンによれば月の満ち欠けに生と性のリズムが同調するのは月と地球が霊的兄弟だからである。

>進化がその発展段階でエーテル的段階と濃密な物質的段階の境界線にさしかかった時期に「月」は「地球」から分離した、と秘伝家は考えている。
>「月」と「地球」は、物質体は分離しているけれども、一つのエーテル体ダブルを共有し、「月」の方が年長の相棒なのである。すなわち、エーテル界では「月」の方が電池の陽極であり「地球」が陰極なのだ。(「神秘のカバラー」p.345~346 )

最近は天文学でも地球に小惑星が衝突しもぎ取られた物質から月ができた、という「ジャイアント・インパクト説」が再び定説となりつつある。

またシュタイナーもレムリア紀の記述で月の性的、魔術的性格について語っている。

>温和な人は意志を通して火の自然要素を鎮め、その事によって陸が沈澱して行きました。激しい人間は反対に、意志を通して火の塊を荒れ狂わせ、薄い地球の覆いを引き裂きました。月紀、及び地球紀における月紀の繰り返しにおいて人間の特徴となっていた全く野蛮な、情欲の激しい力がもう一度、新たに発生した個体的な人間の魂を引き裂きました。(「薔薇十字会の神智学」p.154

ここではマントル対流や火山活動が理性と性欲の、和御霊と荒御霊の闘いである事が示唆されている。

プルタルコス~バッハオーフェンでは泥土の混沌から水と土の分離、水、火、光と物質性から非物質性へと上昇し、ダイアン・フォーチュンやシュタイナーでは非物質的なものからガス、泥土、固体へ変化するという逆の体系だが、それについてはまた別の機会に考えたい。

月が夜と性に結びつきそこから性的な潜在意識に結び付く。それを典型的に表すのがセレーネーとエンデュミオンの神話である。
月の女神セレーネーは眠っているエンデュミオンに恋をし彼が眠っている間に交わり、ゼウスに頼んで彼を永遠の眠りにつかせる。セレーネーは「愛するがゆえに殺す」という恋愛の悪魔的側面をすでに抱えている。

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              ジョージ・フレデリック・ワッツ 「エンデュミオン」


月は不死なる者と死すべき者を媒介し結合する。「月の統合性」という性格は夜からの意味連関でも説明できる。夜は「全ての牛を黒くする闇」(ヘーゲル)だからだ。そしてバッハオーフェンが何度も強調する様に統合は女性、分離は男性である。秘儀宗教のシンクレティズムは女性の抱擁力(包容力)に対応している。

こうして月、夜、太陰暦、女性、生殖、生死の循環、統合、密教、此れ等が何重にも重なった意味連関を持つ事が分かる。




<男性としての月と牡牛>

月は一方で男性としての生殖能力も表す。つまり月は両性具有であり、太陽に対しては女性ルナ、大地に対しては男性ルヌスである。
月は太陽によって授精され、大地を授精させる。

月が女性的な物質性から男性的な力へ、「物質の中に生命を覚醒させる力」と変化する事は男性が水から火へと進化する事、無名の種馬ではなく特定の子の親として観念される事を意味し、母権制から父権制への転換力となる。

男性としての月もやはり性的側面を持ち、それは牛で表現される。
牡牛に化けたゼウスに誘拐されるエウロペ、牡牛に恋をしたパシパエ、半人半牛のミノタウロス、ディオニュソスの角、月の光を受けて生まれる牡牛神アピス、カドモスを誘導する雌牛の脇腹にある満月。

バーバラ・ウォーカーによれば、ミノスは「月の生物」を意味し、クレタ島の王たちの添え名でもある。牡牛神は月女神と交わる象徴劇を演じたのち解体されミノタウロス、すなわち「月の雄牛」として周期的に再生した。

ゾロアスター教では原牛の死体から植物が生じ、牛の精子は月光で清められて動物が生じたと言われる。

リュキアのベレロポンやエジプトのアピス、セラピスが属するのは変化を超越した光の世界ではなく、生成と消滅を繰り返す月の世界である。それは牡牛のマダラ模様であり、月の満ち欠けである。
牛は常に大地の法、女性原理の優位を暗示する。

この様に牛と月を結び付ける神話資料は豊富なのだが、その意味連関は今ひとつ分からない。しかしWikipediaによれば牛は一般に昼行性だが人が群れの縄張りに侵入した地域では夜行性に変わるそうだ。
古代エジプト、ギリシャ、ペルシャ、インドでも夜中に散歩したり草を食べる牛の姿が強く印象に残ったのではないだろうか。しかし牛と月の関係にはさらに神秘的な何かがある様な気がする。それは今後の課題である。

しかし牡牛は月から太陽へと変化する傾向も持っている。
クレタの青銅人タロスは夜通し海水につかって水音を立てる。この段階では大地の水であり夜にさすらう者としては月である。しかし鍛冶師によって作られ、戦う相手を熱で焼き殺す点では青銅を溶かす火山の火を象徴する。

ディオニュソスもまた太陽の牡牛である。ミノタウロスが「牛頭人身」であるのに対しディオニュソスが「人頭牛身」であるのは前者が月の段階の牡牛、後者が太陽の段階に高められた牡牛を象徴するからである。

セラピスの別名ゼウス・ヘリオスは太陽の授精力を意味するが、このヘリオスはアポロンの純粋な光ではなく大地を孕ませる物質性を持った火の力であり、その本性はディオニュソス的なものである。


牛、ディオニュソスが水の兆候を引きずっているように太陽の初期は光よりも物質性を残した火としての性格を引きずっている。

まだ未整理な部分も多いのだが、それは今後ユングやユング派神話学を読む中で深めていく課題としておこう。


ヴィクトリア 「おお、貴方たち」(O Vos Omnes)

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                おお 貴方達
                道行く人は全て
                立ち止まって見よ
                わが苦しみに
                匹敵する苦しみがあるか
                全ての民よ 立ち止まり
                わが苦しみを見よ
                わが苦しみに
                匹敵する苦しみがあるか

この歌詞はもともと旧約聖書の「エレミヤの哀歌」のものだが、エレミヤの受難はイエス・キリストの受難へと拡大解釈された。

僕はこれを読むとどうしてもマックス・ヴェーバーの「心情倫理と責任倫理」という概念を思い起こさずにはいられない。
心情倫理のモデルはエレミヤとイエスに有り、責任倫理のモデルはカルヴァンに有る。

カルヴァンの宗教改革は市民革命や資本主義へと社会を根底から覆す原動力になった。それに比べてエレミヤやイエスの革命は何故失敗に終わったのか? 
ヴェーバーの「心情倫理と責任倫理」という概念にはこの様な痛苦の感情が込められている。心情の純粋性だけではこの世を動かす事はできない。この事はヴェーバーにとって当然であると同時に苦痛でもあったのである。


パレストリーナ 「悲しみの聖母」

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パレストリーナの「悲しみの聖母」は前にヴィクトリアとの比較で一度挙げたが、再掲する。ペルゴレージのものと歌詞はほとんど同じなのだが、ペルゴレージのような悲痛な響きが無く透明感と浮揚する様な神秘感に満ちている。

以前パレストリーナの曲はコードに直せないと書いたが、この曲の場合は対位法というより和声的な作りになっているのでコードにする事ができる。

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出だしの部分のコードを赤ペンで書いてみた。
1段目と2段目の初めにA ➡ G ➡ Fとクロマティックなコード進行をする事、その後G ➡F ➡ Cとアーメン進行が続く事、最後にシが♭になる事でキーがCからFに転調した印象を受ける事が分かる。

パレストリーナの曲をコードに直してみる事は古典派以後の音楽を聴き慣れた者にとっては全く未知の世界を探検する様なワクワクする作業ではないだろうか?




連絡

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少しお気に入り登録、友達登録を整理したいと思います。
長期間更新していない方、呼びかけてもレスが無い方は事実上ブログを終了していると見なし関係を解消しました。
それぞれ事情があるのでしょうが、友人が減っていくのは残念です。

感覚器という超能力

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ユングの元型論へ入る前に少々頭の柔軟体操を。(笑)


感覚の座は脳にあると現代人は考えがちだ。「見ている」のは眼球ではなく脳だと。眼球はカメラと同じ道具に過ぎず、そこから視神経の電気刺激が大脳に伝わり過去の記憶などと照合された上で初めて視覚という内的体験が生じるのだと。これは正しいだろうか?


ではクラゲの場合はどうだろうか? 
クラゲは多数の眼点を持っている。(写真の矢印の先の黒点)


しかしクラゲには散在神経が有るだけで脳が無い。その場合は散在神経が原始的ながら脳の統合作用を果たしているのだろうか?


ではミドリムシはどうか? ミドリムシは単細胞生物でもちろん神経も無い。しかし眼点が有るのだ。優等生は少し考えてこう言うかもしれない。「この眼点は単に光を受容しているだけで「見ている」とは言えないだろう。眼点の刺激から鞭毛モーターの動きの変化までの過程がいつか全て化学反応の連鎖として説明されるはずだ。」


フムフムなるほど。ではこれはどうだ?


これで王手だ。このワルノヴィア科 渦鞭毛藻は単細胞生物なのに高等生物に匹敵する角膜とレンズと網膜を備えている。(下図左)

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                natureダイジェストより「微生物の眼はどうやってできたのか」

角膜は一層に並んだミトコンドリア、網膜は色素体のネットワークである事が分かった。どこまでハッキリと焦点を結ぶかは分からないが、少なくとも「焦点を結ばせようとする」機能を目指して進化してきたのである。



この不思議な生物は「感覚という内的体験の座はどこに有るのか」という哲学的問題を再び振り出しに戻してくれる。
脳や神経が無くても「見る」事ができる生物がいるのである。

もちろんこれはゾウリムシの消化器官と同様、収斂進化の典型的な例でもある。この様な例は分子生物学では永久に到達できない何かの力が生物には働いているという「生気説」に我々を再び惹きつける。

生物は「レンズによって光が屈折する事」「光の屈折率を変える事で近くや遠くに焦点を変えられる事」を何故、どうやって知ったのか? また知ったところで自分の思う通りに自分の体を変化させる事が可能なのか?それとも生物の外側の何らかの超越的な力がこの様な奇跡の造形を可能にしたのか?

眼が一つあれば二つ目ができてもちっとも不思議じゃないし、鞭毛が手足の様に進化して行っても不思議じゃない。口はすでにゾウリムシが持っている。この調子で進化するといつかアマゾンの奥地で下の様な単細胞生物が発見されるかもしれないのだ。


    \(^0^)/        オワタ

   _(:3 」∠)_      昼寝中


    ┌(┌ ^o^)┐       ホモォ


         ( T^T )       泣くもんか!

Sputnik News を読もう!

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アメリカのマスメディアが嘘ばかり言うようになった今、世界で最も良心的なメディアはロシアのSputnik Newsだと僕は思っている。

CIAがアルカイダやイスラム国を作ったのだという事はもはやアメリカ国民の間でも常識になりつつある。これはアメリカの国際的威信を決定的に失墜させる事になるだろう。

CIAは冷戦時代からキューバのカストロ首相暗殺計画やケネディー大統領暗殺などならず者ぶりを発揮してきたが特にイラン・コントラ事件あたりからその謀略の性格がナチス的な陰湿な物になってきたようだ。

イラン・コントラ事件とはレーガン政権がイランへの武器輸出を禁止していたにも関わらず裏では政府自身がイランに武器を売却し、その資金で南米ニカラグアの反共ゲリラ「コントラ」を支援していた事件である。https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%B3%E3%83%B3%E3%83%88%E3%83%A9%E4%BA%8B%E4%BB%B6
表向き政府が唱える事と正反対の事を陰でCIAがやっているという点で今のイスラム国騒動の原型である。

今から思えばパパ・ブッシュの起こした湾岸戦争が謀略戦争の始まりだったかもしれない。この戦争が冷戦終結によって一時危機に陥ったアメリカ軍事産業を救った事は広瀬隆氏の「赤い盾」に詳説されている。(集英社文庫版 第4分冊 p.1550~)

アメリカのナチスドイツと見紛うばかりの謀略はもはや悪魔そのものである。僕は今世界の良心を代表するメディア、スプートニクを一人でも多くの日本人に読んでもらう事を切に訴えたい。

連絡

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いろいろ考えた結果、このブログは学問と芸術に特化し、政治的意見はこちらのブログへ移そうと思います。
http://blogs.yahoo.co.jp/asyura919

それに伴いペンネームも変更しました。
今後も宜しくお願いします。

ズート・シムス 「Willow Weep for Me」

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ズート・シムスはレスター・ヤングに影響を受けただけあってメロディフェイクを基本にした「歌うフレーズ」とクールな温かみが持ち味だ。

今まで白人のサックスはあまり聴いてこなかったが、この曲などはソニー・ローリンズの「サキソフォン・コロッサス」に匹敵する盛り上げ方の巧みさを感ずる。細かい波ではなく大きな波を作るのが上手いのだ。

「人間と象徴」 ① 視点

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実はこの間ずっと風邪で読書が進んでいないのである。(苦笑)
今回は「人間と象徴」を再検証する視点について書く事にする。


ユングの元型論が僕のインスピレーションを刺激するのは、それが系統発生から個体発生へ、個体発生から心的構造の空間的重層性へと二重の写像が行われる多次元的な場だからだ。それはヘッケルの反復説、ピアジェの発生的認識論、チョムスキーの変形生成文法、シュタイナーの星の転生論などと同じパラダイムに立っている。

集合無意識と個人無意識の相似と葛藤の諸相は一方でライプニッツのモナド論に、他方で発生生物学につながり「根源的な一者からいかにして個性的な多者が生じるか」という哲学的テーマに掛かっている。

「意識の古層」を掘り起こす考古学は同時に「心的重層構造」の解剖学でもある。

しかし僕の「生命の弁証法」はユング派神話学にそれ以上のもの、人間の中にある善悪の意味、グノーシス的な神義論まで求めようとしている。それは西洋文学の書庫で温めてきた「黒いロマン主義」と古代的供儀との接点を辿る旅の延長である。





あらゆる学問はロゴスによって自然の中に隠されたロゴスを探すという意味では自分の尾を飲み込む蛇、ウロボロスたらざるを得ない。

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                                                  ウロボロスの図  wikipediaより
 
ウロボロスの輪はアーラヤ識を根拠としながらアーラヤ識を対象として眺めるマナ識のループでもある。イメージ 2
                             マナ識のループ   図はこちらから借用 

学問的方法論自体が知らず知らずの内にその学の生まれた風土的、個人的環境の影響下にあり、それは哲学、社会学はもちろん、自然科学さえイデオロギー性を免れない。「イデオロギー論」とはイデオロギー性を持った体系が体系のイデオロギー性を分析するというウロボロスに他ならない。

父親との葛藤を基軸にリビドーの力動的関係を追求するフロイト派がフロイト自身の家父長的性格と関係し、母親との葛藤が基軸になるユング派はユング自身の母性的性格と関係しているとの説は既に多くの人に指摘されてきた。おそらくその通りだと思う。

フロイトにおけるリビドーの発展段階とエディプスコンプレックス論がユングにおけるグレイトマザーとアニマの分離過程に相当し、両者は裏返しとも言える関係にある事は以前日本神話の書庫で書いた。
http://blogs.yahoo.co.jp/bashar8698/38720936.html?type=folderlist 

龍と闘う英雄、いわゆる「ペルセウスーアンドロメダ型神話」がフロイト派とユング派で反対の解釈をされる。フロイト派では龍は権力的な父親であり、ユング派では子供を自立させない母親である。

これはどちらが正しくどちらが間違っているというよりはどちらも正解であり、父権的な社会ではフロイト派に近くなり母権的な社会ではユング派に近くなるというのが僕の見方である。何故なら母親の性的役割が事の起点となる点ではフロイトもユングも一致しており、その後に「恐ろしい父」が介在するかどうかは現実の父の性格によって変わるだろうからだ。

またこれはギリシャ神話の中でディオニュソス的、男根的な蛇と、エリニュス、復讐する大地母神的な蛇が同居し、エロス的陶酔の中で両者が混じり合うのを確認したからでもある。


そういう訳で、差し当たりバッハオーフェンの母権論との関係で注目したいのは「グレイトマザー」と「アニマ」の二つの元型である。
次回から具体論に入る。

田村翼 「Love is Here to Stay」「Moanin'」

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僕がジャズスクールに通った若かりし日(笑)スクールの特別講師だった田村翼氏はビバップスタイルで日本を代表するピアニストで僕にとってはもちろん雲の上の人であった。発表会で田村さんの弾いたスローブルースは鳥肌が立つほどカッコ良かった。

彼は多くの若きジャズマンがモードスタイルに惹かれる中で頑なにビバップを貫き通し、しかもトミー・フラナガンやハンプトン・ホーズなど新しいものを常に取り入れる進取の気性を持っていた。

「僕はスウィング感とブルースフィーリングを感じさせるものしか弾かない。」彼は常々こう語っていたそうである。今聴いても全く古さを感じさせないのはさすがだ。

僕の最も好きなピアニスト、本田竹広氏とはある意味で正反対のスタイルだが、強いタッチと黒いセンスが意外と共通している。しかも強弱のつけ方にバド・パウエルの香りを感じるのは僕だけだろうか?



ブルースの妖精 フィービ・スノウ

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フィービ・スノウの動画がYouTubeで復活したので再び削除されないうちに再掲する。

1970年代半ば頃、アメリカでは新左翼運動とソウル・ムーヴメントの挫折が誰の目にも明らかになり心理的退行とノスタルジアのムードが漂っていた。そんな時代の流れを象徴する様に現れ「ブルースの妖精」と言われたのがフィービ・スノウである。


透明なブルースフィーリングと4オクターヴ以上の広い音域を持った美しい声を持つ人だったが、障害を持った子供の世話で音楽活動から遠ざかる事になり、5年前、2011年に脳出血で亡くなった。





デヴューアルバムの1曲目「Let's The Good Times Roll」はなかなかゴキゲンなブルースだ。わざと古くさいアレンジにしながらモダンジャズの洗練も合わせ持っている。この泥臭いミシシッピ・デルタ・スタイルからサザンソウルからモダンジャズまでがオモチャ箱のようにゴッチャになった不思議な感覚こそ彼女の醍醐味である。
アコースティックのブルーノートがとても心地よく感じる。





2曲目は彼女の代表曲で全米ヒットチャートで1位になった。

ブルースの透明度をここまで高め洗練させた人がいまだかつていただろうか?

モータウンやフィラデルフィア・サウンドも「スウィート」で「メロウ」な方向へと向かって行ったが、それらは洗練度を加えるほどブルース・フィーリングを失っていった。だからこそ、それに反発した黒人達が「ファンク」へと流れたのである。(これは僕の心理的解釈である。一般の解説とは違っているかもしれない。)

しかしフィービ・スノウはそれとは違い「ブルース・フィーリングそのもの」を洗練させようとしていたのだと思う。

ブルース・フィーリングとはブルーノートを多用する事ではなくメロディーラインのある種のパターンである。またブルーノートと言えば7thを使えばいいというものでもなく、むしろ9th、13thの方が黒人的なフィーリングを表現する場合が多い。

メジャーキーとマイナーキーの間を行ったり来たりする感覚、コードが裏返しになる感覚と浮揚感、そんなものの集積に彼女はさらに「透明感」を加えている。

この浮揚感と透明度を味わってもらいたい。

人間と象徴 ② 影とアニマ

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ユングの言う「アニマ」は男性の中にある未熟な女性である。男性が眺める女性は多かれ少なかれ理想化されている、つまりアニマが投影されている。このアニマの観念は「影」と並行して考える事でより良く理解される。影が同性として現れる事が多いのに対しアニマ、アニムスは異性である所が異なるが、心理的機能は影と同じ様に考えられているからだ。



(1)まず「影」は人間が幼児期のある段階で無意識の中に抑圧した自分自身の一部である。それは表の人格と反対の性格を持つ「自分が否定したい自分」「受け容れられない価値観」である。

影は普段は抑圧され社会的鍛錬を経ていないため、暗く未熟で原始的、情動的であり、反社会的である場合もある。

アニマも同じである。幼児は両性具有的であり、その後多くは社会的ジェンダーの圧力により女性性が抑圧され隠される。そして影と同様にまずは「否定的エネルギー」として作用する。




(2)影とアニマは「投影」される点でも共通している。

自分自身の影を他人の中に見る事をユングは「投影」と呼んだ。投影は激しい感情、多くは怒りを伴う。例えば或る人の陰湿な面に理不尽とも言える激しい怒りを感じる時、それは自分の奥に同じ陰湿さが隠されている事を否定したいためかもしれない。

アニマの場合、投影は対象の中に自分の理想化された異性像を見る事である。ユングはそれを4つの発展段階論に整理した。

①  生物的アニマ
性的、肉体的な色彩が強く、性格、心情より容姿が優先される。
アプロディテがこの代表だろう。

②  ロマンチックなアニマ
性的な面を残すが、性格も顧慮され、美的で恋愛の対象である。
「ロミオとジュリエット」など悲恋物語に出て来る女性。

③  霊的アニマ
無償の愛、無限の慈悲などの癒しを求める。乙女の清浄さと母親の暖かさを併せ持つ。
聖母マリアや観音菩薩が例として挙げられる。

④  叡智的アニマ
近づき難い神聖さと知恵を持つ。性的要素は完全に消える。
女神アテナやモナリザの微笑がもたらすもの、また河合隼雄氏は弥勒菩薩を挙げている。


一方アニムスの発展段階論はユングの死後、妻のエンマによって提案されたが、ユング自身はアニムスはアニマと比べて不定形で捉えがたいものと考えていて、ユング派の中でも彼女の説を認めない学者もいる。ここではユング心理学の中心になる影とアニマに限定しアニムスの段階論は参考資料を挙げるにとどめる。比較神話の中で必要になったら再考したい。



(3)影は社会と断絶しているのではなくむしろ意識よりも周囲の雰囲気に影響され易く集団ヒステリー的な状態になり易い。伝染性のエネルギーを持っているのである。

ユングの弟子、マリー=ルイス・フォン・フランツは例として悪魔に取り憑かれた修道女や現代アメリカのKKKなどを挙げている。もちろんナチスもその良い例となるだろう。

これは意識よりも無意識の方が他者と繋がっているとするほとんどの神秘主義者の説と一致する。ダイアン・フォーチュンによれば「呪い」は相手の無意識に働きかける事であり、その秘訣は相手の「裏庭の鍵を握る」事である。

アニマも同様に人の運命を左右するほどのエネルギーを持つ。恋愛は時には人間に死を恐れない強さを与える一方、時には悲惨なほど堕落させる場合もある。僕が日本思想史の記事で書いた「政治と恋愛の相似」はユング的に言えば「影とアニマの相似」という事になる。


(4)従って影やアニマに対し正面から向き合い、対決し、同化する事が最良の対処法である。

「影の同化」によって人間は影の強力なエネルギーを使いこなしギリシャ神話的英雄となる。ヘラクレスの12の功業がその例として挙げられている。

逆に影が意識と切り離され孤立するほど不可解な魔術的な形で意識に危険な作用を及ぼす事になる。影は無視され誤解されることにより敵対的なものとなる。影は表の人格に対して毒にも薬にもなりうる両義性を持っているわけである。

アニマも同様に両義性を持ち、(2)の4段階を経て表の人格に統合されるとユングは考えた。アニマの両義性ははグレイトマザーの両義性に繋がっている。これについてはまた次回に。



ハンサム仏陀

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我が家の聖観音像は妻に「おにさん ミコ欲しいは ブッダ日本スタイルわ」とせがまれて通信販売で購入した物で、以来もう20年も僕等を見守り続けている。妻は「オーイ 日本ブッダ ハンサムなあ」としきりに感動していた。(笑)(オーイはタイの感嘆詞である)

僕にとっては命の恩人の様な観音様である。
毎年掃除をしているのだが、後光の円盤が少し錆びてきた。少し強く擦ると多分メッキが剥がれてしまうし、これ以上錆びるのを食い止める事しかできない。何とか長持ちさせたい思いで一杯である。

人間と象徴 ③ アニマとグレイトマザー

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ユング心理学における影、アニマ、グレイトマザーなどの無意識の中の存在は全て否定的側面と肯定的側面を持っている。それらは「自我と無意識の葛藤と統合」という全体の構造の中にあるからだ。
否定的側面によって分裂し肯定的側面によって再統合するのである。

ここでの自我はフロイトの言う「自我」(ego)と同じく意識の核になるものだが、ユングはこれと別に「自己」(self)という概念を立てる。これは意識、無意識を含む心全体の核であり「アートマンやプルシャに近い」と説明される。

「自我」と葛藤する影、アニマ、グレイトマザーは最後に「自己」において統合される事を理想とする。

自我は幼児期には自己そのものであり或る時期に分離する。自己と自我の分裂はグレイトマザーとアニマの分裂でもあり、また自然の象徴が根源的ヌミノスを失い文化的象徴へと変容していく過程でもある。

しかし失われたかに見えるヌミノスは本当は意識下に抑圧され、元型に付着して保存されている。ヌミノスを回復するのはもはや「自我」ではなく「自己」である。

発生した自我は母親との幸福な一体感に帰ろうとする退行現象と戦い自由と自尊心を勝ち取ろうとする。フロイトの「エディプス的葛藤とその内面化による超自我の形成」が怒鳴りつける父親との戦いであるなら、ユングの「グレイトマザーからのアニマの救出」は性的抱擁力で子供を抱き締め自立させない母親との戦いである。「英雄と龍の戦い」はこの段階を象徴する。その本質的な機能は「自我を強める事」にあり、人生の成熟期に入れば英雄神話はその妥当性を失う。



<否定的アニマ>

自我と葛藤する「影」がまず否定的価値として現れる様に、アニマもまず「否定的アニマ」として現れる。

否定的アニマは母親との関係によって現れ方が異なる。「母親が自分に悪い影響を与えた」と感じる場合、つまり母親嫌悪の場合、アニマは倦怠感、情緒不安定、怒りっぽさ、などとして現れる。

それは次の様な主題を繰り返す。
「私には何の取り柄も無い」「世の中の事は全部無意味だ」
このアニマは現実から遠ざかるように男性を誘惑する。その極端な結果は男性の自殺である。男性の死後、このアニマは死霊となる。


では母親から良い影響を受けたと感じている人は肯定的アニマという事になるのだろうかと言うとそう簡単ではないようだ。それもまた否定的アニマとなり得る。その場合、男子は女々しく、センチメンタルになったり神経過敏になったりし、女性の餌食となって人生に立ち向かえなくなる。「マザーコンプレックス」という言葉は日本特有のものだが、この場合はまさにその言葉がピッタリ当てはまる。

ギリシャのセイレーン、ドイツのローレライは美しい歌声で誘惑し船を難破させる。恋愛の誘惑、性的誘惑が「死への誘惑」である点で典型的な否定的アニマである。

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オデュッセウスとセイレーンたち」ハーバード・ジェイムズ・トレイバー作


またオルペウスの妻エウリディケもオルペウスを死の国へと導いた点で否定的アニマとみなされる。それなら日本のイザナミも同じだ。

また否定的アニマは王女としても形象化される。
王女は求婚する男性に無理難題を課し、達成できない男性は死なねばならない。スピンクスが例として挙げられているが、オデュッセウスの帰りを信じ求婚者をはぐらかすペネロペや日本のかぐや姫にもその要素が見られる。

この様な二つのタイプの否定的アニマは恋愛の相手の女性に投影され、男性は彼女に溺れてしまい人生を大きく狂わせる事になる場合が多い。


<肯定的アニマ>

これに対し肯定的アニマは男性に適した結婚相手を見つけるだけでなく、彼の論理的思考に内的価値を与え、自我と自己の仲介者となり、人格に深みを与える。

仲介者としてのアニマはエジプト神話のイーシスの他、文学作品にも多く見られると言う。例としてダンテの「神曲」におけるベアトリーチェが挙げられている。

ベアトリーチェは実在の人物でダンテの「久遠の女性」である。彼女が別の男に嫁いだ後、25歳で夭折した事を知ったダンテは半狂乱になり、その後の10年間を自堕落に過ごしたと言われる。しかし神曲の中のベアトリーチェはダンテに「愛が全て善であるとは限らない」事を体験させるグルとして現れる。ノヴァーリスの恋人ゾフィー、ヘルダーリンの「ヒュペリオン」のディオティマなどにも同じモチーフが見られる。



<グレイトマザー>

アニマはもともとは分離した自分自身であり、男性の心の成長に従って成長する。これに対し「グレイトマザー」はより集合無意識的な存在で終生変化せず無意識の最奥に有ってアニマに影響を与え続ける。
まさに「大地母神」のモデルである。

グレイトマザーの肯定的側面は女性の理想像として表れる。出産、育児、豊穣、繁栄、抱擁力の象徴であり、女神、菩薩、海、乳房、月などに形象化される。

否定的マザーでは抱擁力が全てを飲み込む魔力として現れる。
神の言葉に逆らったヨナを飲み込む大魚、イアソンやディオニュソスが育った洞窟、ラビリントスの迷路、バリ島の魔女ランダ(下写真)

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女性を龍から解放するのは否定的なグレイトマザーからアニマを解放する事であると言う。しかし「アニマとグレイトマザーの分離の過程」と「アニマの4段階の発達論」そして「アニマとマザーの両義性」この三つがどう関係しているか、それがどのユング解説を見てもはっきりしないのである。そしてその困難さがユングとバッハオーフェンを繋げる困難さにもなっている。

敢えて言えば、否定的アニマはバッハオーフェンのアマゾンとディオニュソスに現れ、ユングの肯定的マザーがデメテルに、アニマの第一段階である生物的アニマがアプロディテに現れている。
しかしこの様な散漫な当てはめ方しかできないのではバッハオーフェンとユングを繋げる意味が全く無くなってしまう。もっと有機的な関連を持たせるためには観念の修正が必要だ。

まずアニマとマザーの分離の過程をアニマの発達段階と関連させて新たなアニマ6類型論を示した林道義氏の説は注目に値する

しかし僕はこの林氏の類型論でも納得がいかない。否定的アニマは母親嫌悪の場合と母親愛着の場合で現れ方がまるで異なりそれがアニマの発達にも、またアニマとグレイトマザーの分離過程にも影響を及ぼすはずなのに、その肝心な点を誰も説明していないからだ。





ここからはユングやバッハオーフェンそのものから飛躍し僕のアイデアを書く事になる。まだ思い付き程度であり、今後ユング派神話学者の説を参考に修正していくつもりだ。

アニマの両義性とアニマの4段階の関係に関しては、①生物的 ②恋愛的アニマが否定的アニマ、③霊的 ④叡智的アニマが肯定的アニマに対応するだろうと想像できる。

また肯定的アニマと肯定的マザーを見るとかなりイメージが接近していると言える。そうするとアニマは初めにマザーから性的な要素を奪って分離し、その後次第に性的な要素を払拭していった挙句、最後にはマザーに戻るという事になるのだろうか? 
そう考えると妻と母を兼ねるイーシスやデメテルと再会するペルセポネーなど神話にもその題材が多い事に気付く。

ユングの否定的マザーは「復讐」の要素を持たない点も僕の疑問に思う点である。「人間と象徴」ではモーツァルトの「魔笛」の夜の女王が否定的アニマの例として挙げられているが、下の夜の女王が歌う言葉を見るとそれはまさにバッハオーフェンで見たゴルゴン、メデューサ~復讐の女神エリニュス~男性排除のアマゾンの形象に連なるものだ。

地獄の復讐がわが心に煮え繰りかえる
死と絶望がわが身を焼き尽くす!
お前がザラストロに死の苦しみを与えないならば、
そう、お前はもはや私の娘ではない。

勘当されるのだ、永遠に、
永遠に捨てられ、
永遠に忘れ去られる、
血肉を分けたすべての絆が。
もしもザラストロが蒼白にならないなら !
聞け、復讐の神々よ、母の呪いを聞け !

夜の女王は娘のパミーナを奪ったザラストロに怒り狂い、パミーナに「これでザラストロを刺せ!」と剣を渡すが、パミーナは母の言葉に従わず「この神聖な殿堂に復讐など無い」というザラストロの言葉を信ずる。これはオレステイアの第3部に描かれた復讐の女神エリニュスとアポロンの闘いと同じである。

子を奪われたデメテルの悲しみはこの世で最も激しく崇高なものであると同時に復讐の女神エリニュスに通じるものでもあり、「復讐する蛇」もまた大地母神の変形である事をそれは示している。これこそ否定的マザーとアニマの関係を示すものだ。

しかし「人間と象徴」ではこれが否定的マザーではなく否定的アニマの例として挙げられている。この不自然さはユングがグレイトマザーの否定的側面を「性的抱擁力」に限定した事からきていると僕には思われる。

「復讐する大地母神」という元型をバッハオーフェンは「アマゾン的女性支配」として認めたがユングは認めなかったのである。


ユングの概念を修正する時、母親に対する嫌悪と愛着によって否定的アニマの性格が異なる事はその鍵になると思われる。

母親嫌悪の場合、男性の女性に対する理想像は母親と反対のタイプに近づくと想像するのはごく自然だろう。
母親がアテナ的、アマゾン的性格の場合、即ち性的なものを嫌悪しひたすら闘争本能だけを子供に植え付けようとする場合、子供のアニマは娼婦的な女性、あるいは闘争を嫌う癒しタイプの女性になる可能性が高いのではないか? 

70年代以前の日本によく見られた「受験体制に微塵も疑いを持たない思想性ゼロの教育ママ」に反発する息子が「清らかな文学少女」に憧れ、場合によってはロリコン趣味になる、というパターンはこの戯画化された例だろうか?(笑)

逆に娼婦的、アプロディテ的母親を嫌悪する男性のアニマはエリニュス、アマゾン的なものとなり「他人に勝つ事を生き甲斐とし弱肉強食を信念とする差別主義者」となるかもしれない。

もちろん母親愛着の場合はこれと結びつき方が逆になり、母親と似たタイプが恋愛対象となるだろう。


またアニムスの発達を考える時、男性と女性の異性像の発達には大きな違いがある事を念頭に置かねばならない。これはフロイト、ユング両者が強調している事である。

女性は初恋の相手が学校の先生という例があり、恋ではなくとも理想の男性像として結婚相手の選択にまで影響を及ぼすのはよく聞く話である。それに対し男性も保育園の保母さんに淡い恋心を抱く事はあってもそれが学校へ入る頃には自然に(或いは周りの影響で)逆転し年上の女性への思慕は消える事になる。この逆転がアニマとマザーの分離過程にも影響を与えるだろう。この逆転が無い男性はいわゆるマザーコンプレックス、シスターコンプレックスという事になる。そして女性にはこの逆転があまり見られないという点でアニムスの発達はアニマと全く異なるはずである。




バリ島のヴィシュヌ神像

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これはまた、何とハンサムな仏像だ!
と思ったら、これは仏像ではなくヴィシュヌ神像なのだそうだ。

インドネシアはイスラム教の国だがバリ島だけはヒンドゥー教であり、14,5世紀ジャワ島を中心に栄えたマジャパイト王国の末裔が今も神官として伝統文化を伝えている。有名なバリダンスやガムランの音楽もヒンドゥー文化の一環だ。

しかしこのハンサムさはどうだ?  日本の仏像、負けてないか?

これはいつの時代の様式か? というと現代である。(笑)   今建設中なのだ。まだ上半身しかできていないが、立像の全身が完成するとエンパイヤステートビルより高くなる予定だそうである。

インドネシアは地震の多い国だが耐震技術は大丈夫なのだろうか?
上半身だけにしておいた方が無難ではないか?
などと余計な心配をしてみたりする。

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