グレイトマザーの肯定的側面は女性の理想像として表れる。出産、育児、豊穣、繁栄、抱擁力の象徴であり、女神、菩薩、海、乳房、月などに形象化される。
否定的マザーでは抱擁力が全てを飲み込む魔力として現れる。
神の言葉に逆らったヨナを飲み込む大魚、イアソンやディオニュソスが育った洞窟、ラビリントスの迷路、バリ島の魔女ランダ(下写真)
女性を龍から解放するのは否定的なグレイトマザーからアニマを解放する事であると言う。しかし「アニマとグレイトマザーの分離の過程」と「アニマの4段階の発達論」そして「アニマとマザーの両義性」この三つがどう関係しているか、それがどのユング解説を見てもはっきりしないのである。そしてその困難さがユングとバッハオーフェンを繋げる困難さにもなっている。
敢えて言えば、否定的アニマはバッハオーフェンのアマゾンとディオニュソスに現れ、ユングの肯定的マザーがデメテルに、アニマの第一段階である生物的アニマがアプロディテに現れている。
しかしこの様な散漫な当てはめ方しかできないのではバッハオーフェンとユングを繋げる意味が全く無くなってしまう。もっと有機的な関連を持たせるためには観念の修正が必要だ。
まずアニマとマザーの分離の過程をアニマの発達段階と関連させて新たなアニマ6類型論を示した林道義氏の説は注目に値する。
しかし僕はこの林氏の類型論でも納得がいかない。否定的アニマは母親嫌悪の場合と母親愛着の場合で現れ方がまるで異なりそれがアニマの発達にも、またアニマとグレイトマザーの分離過程にも影響を及ぼすはずなのに、その肝心な点を誰も説明していないからだ。
ここからはユングやバッハオーフェンそのものから飛躍し僕のアイデアを書く事になる。まだ思い付き程度であり、今後ユング派神話学者の説を参考に修正していくつもりだ。
アニマの両義性とアニマの4段階の関係に関しては、①生物的 ②恋愛的アニマが否定的アニマ、③霊的 ④叡智的アニマが肯定的アニマに対応するだろうと想像できる。
また肯定的アニマと肯定的マザーを見るとかなりイメージが接近していると言える。そうするとアニマは初めにマザーから性的な要素を奪って分離し、その後次第に性的な要素を払拭していった挙句、最後にはマザーに戻るという事になるのだろうか?
そう考えると妻と母を兼ねるイーシスやデメテルと再会するペルセポネーなど神話にもその題材が多い事に気付く。
ユングの否定的マザーは「復讐」の要素を持たない点も僕の疑問に思う点である。「人間と象徴」ではモーツァルトの「魔笛」の夜の女王が否定的アニマの例として挙げられているが、下の夜の女王が歌う言葉を見るとそれはまさにバッハオーフェンで見たゴルゴン、メデューサ~復讐の女神エリニュス~男性排除のアマゾンの形象に連なるものだ。
地獄の復讐がわが心に煮え繰りかえる
死と絶望がわが身を焼き尽くす!
お前がザラストロに死の苦しみを与えないならば、
そう、お前はもはや私の娘ではない。
勘当されるのだ、永遠に、
永遠に捨てられ、
永遠に忘れ去られる、
血肉を分けたすべての絆が。
もしもザラストロが蒼白にならないなら !
聞け、復讐の神々よ、母の呪いを聞け !
夜の女王は娘のパミーナを奪ったザラストロに怒り狂い、パミーナに「これでザラストロを刺せ!」と剣を渡すが、パミーナは母の言葉に従わず「この神聖な殿堂に復讐など無い」というザラストロの言葉を信ずる。これはオレステイアの第3部に描かれた復讐の女神エリニュスとアポロンの闘いと同じである。
子を奪われたデメテルの悲しみはこの世で最も激しく崇高なものであると同時に復讐の女神エリニュスに通じるものでもあり、「復讐する蛇」もまた大地母神の変形である事をそれは示している。これこそ否定的マザーとアニマの関係を示すものだ。
しかし「人間と象徴」ではこれが否定的マザーではなく否定的アニマの例として挙げられている。この不自然さはユングがグレイトマザーの否定的側面を「性的抱擁力」に限定した事からきていると僕には思われる。
「復讐する大地母神」という元型をバッハオーフェンは「アマゾン的女性支配」として認めたがユングは認めなかったのである。
ユングの概念を修正する時、母親に対する嫌悪と愛着によって否定的アニマの性格が異なる事はその鍵になると思われる。
母親嫌悪の場合、男性の女性に対する理想像は母親と反対のタイプに近づくと想像するのはごく自然だろう。
母親がアテナ的、アマゾン的性格の場合、即ち性的なものを嫌悪しひたすら闘争本能だけを子供に植え付けようとする場合、子供のアニマは娼婦的な女性、あるいは闘争を嫌う癒しタイプの女性になる可能性が高いのではないか?
70年代以前の日本によく見られた「受験体制に微塵も疑いを持たない思想性ゼロの教育ママ」に反発する息子が「清らかな文学少女」に憧れ、場合によってはロリコン趣味になる、というパターンはこの戯画化された例だろうか?(笑)
逆に娼婦的、アプロディテ的母親を嫌悪する男性のアニマはエリニュス、アマゾン的なものとなり「他人に勝つ事を生き甲斐とし弱肉強食を信念とする差別主義者」となるかもしれない。
もちろん母親愛着の場合はこれと結びつき方が逆になり、母親と似たタイプが恋愛対象となるだろう。
またアニムスの発達を考える時、男性と女性の異性像の発達には大きな違いがある事を念頭に置かねばならない。これはフロイト、ユング両者が強調している事である。
女性は初恋の相手が学校の先生という例があり、恋ではなくとも理想の男性像として結婚相手の選択にまで影響を及ぼすのはよく聞く話である。それに対し男性も保育園の保母さんに淡い恋心を抱く事はあってもそれが学校へ入る頃には自然に(或いは周りの影響で)逆転し年上の女性への思慕は消える事になる。この逆転がアニマとマザーの分離過程にも影響を与えるだろう。この逆転が無い男性はいわゆるマザーコンプレックス、シスターコンプレックスという事になる。そして女性にはこの逆転があまり見られないという点でアニムスの発達はアニマと全く異なるはずである。