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アプロディテ的乱婚制とデメテル的女性支配

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(1)アプロディテ乱婚制

アプロディテ的乱婚性は一夫一婦制を知らない時代の母権制である。
そこでは男性の人格は問題にならず、ただ無名の不特定の男性が種を撒くばかりである。父親が誰であるかは分からないし、子供は当然母親と共に暮らす事になる。

その具体例としては、ヘロドトスの「歴史」やストラボンの「地理誌」に書かれたカスピ海の東側に住む遊牧民族マッサゲタイ人の他、ナサモネス人やアラビア、エチオピアの例が挙げられている。またローマのカエサルの愛人となったエジプトのクレオパトラもアプロディテ乱婚制の最後の例と見なされる。

この乱婚制をギリシャ神話のアプロディテと関係付けるのはバッハオーフェンの独創ではなく、非常に古くからある見方である。
アプロディテ崇拝の中心はキュプロス島、キュテラ島、コリントスであり、コリントスのアプロディテの社には多数の神殿娼婦がいた。

ここでアプロディテ神話の概略を説明しておく必要があるだろう。

ヘシオドスによれば、アプロディテはクロノスが切り取り海に投げ捨てたウラノスの男根からこぼれた精液が海の泡と混じって生まれたと言う。
彼女はびっこを引いたヘパイストスと結婚したが、戦士のアレス、キュプロスの美少年王子アドニス、ヘルメス、ディオニュソスなど多くの愛人を作り、ディオニュソスとの間には子供ももうけている。
アプロディテは嫉妬深く、自分に服従しない者全てに制裁を課した。キニュレスの娘達は売春を余儀なくされ、レムノスの女性達は悪臭を発して夫に見捨てられ島の男全員を殺す事になる。(これが後にアプロディテ乱婚制とアマゾン的男性排除の関係を示唆するものとなる。)


アプロディテ的乱婚制のもとではそれが自然状態なのであり、むしろ婚姻制は自然状態からの逸脱、自然法の侵犯として登場した。近親相姦のタブーも同様に自然法の侵犯と見なされる。「自然が許していることを嫉妬深い掟が禁じてしまう」のである。
婚姻による貞潔は自然母神の法の侵犯であり、結婚する女は前もって複数の男に身を任す事でその侵犯を償わねばならない。アウギラエ人やトラキア人に見られた婚礼の夜の乱交はそのように解釈される。これを言い換えると、「乱交は自然母神に捧げられた供犠である」という事になる。

しかし一方で乱婚のもとで女性の品位は著しく傷付けられる。男性の欲望に女性が疲れ、秩序ある汚れ無き状態への憧れを強く抱き、乱婚制に対する意識的、持続的闘いを通じてこれを覆そうとしたのだとバッハオーフェンは考える。

だからこそ、その乱婚と婚姻の闘いの中で一時(次回詳述する)アマゾン的男性排除を生む場合があるのだ。

アプロディテ的乱婚制は沼地に自生する湿地帯植物、その野性的、自生的生産に象徴される。



(2)デメテル的女性支配

これに対しデメテル的女性支配は安定した一夫一婦制、デメテル的規律を特徴とし、農耕、即ち湿地帯に自生する植物と反対に大地に手を加える植物的生に象徴される。
バッハオーフェンがヘラス文明以前の輝かしい母権制の例として挙げるリュキア、クレタ、ロクロイの文明はすべてデメテル的女性支配の社会と把握される。デメテル神話を核として、その再現としてのエレウシス密儀、ピュタゴラス教、アルカディアの古民族ペラスゴイのガイア信仰、これらは全て自然母神がユングの言う「元型」である事を示している。

ここでもやはりデメテルの神話を概説する。

デメテルは大地と穀物(特に麦)を司る神である。ゼウスの兄弟だが、ゼウスとの間に美しい娘ペルセフォネーをもうけた。しかしある日ペルセフォネーは地下の王ハデスに見初められ妻として誘拐されてしまった。娘が行方不明になった事にデメテルは驚き悲しみ、松明に火をつけて昼夜を問わず娘を捜し回った。そして太陽神ヘリオスから「ハデスに誘拐された事、夫のゼウスがそれを認めた事」を聞く。
デメテルの悲しみに怒りが加わった。彼女はオリュンポス山を下りエレウシスまで来て泉のそばに腰掛け絶食して神殿で独り誰とも口をきかずに過ごすと大地の穀物は枯れ果て不毛の地と化した。ゼウスもこれには困り、ハデスと交渉してペルセフォネーがハデスとデメテルの元に半年ずついる事で片が付いた。


アイスキュロスの「オレステイア三部作」に見られるクリュタイメストラの夫アガメムノンへの復讐、クリュタイメストラを殺した息子に対する復讐の女神エリニュスの攻撃などはすべてデメテル的女性支配の論理を表す。
「オレステイア」最後のアテナイによる裁定はデメテル的母権制にたいするアポロン的父権制の勝利を意味するとバッハオーフェンは理解する。



乱婚と婚姻はバッハオーフェンによれば常に闘争してきたものの、排他的なものではなく意外に緊密に関係している。
売春でさえ乱婚、つまり素人女性との乱交を防止する機能を持ち、乱婚から婚姻制へも贖罪のための女性供犠から段階を経て変化してきたものである。

古代バビロニアなどに見られる神殿娼婦はアプロディテ的乱婚制の最後の名残であると同時にデメテル的女性支配の補完物でもあるのだ。
(現代フェミニズムの観点からはこの説は激しい批判を浴びるだろう。しかしここではバッハオーフェンの見方としてそのまま記述する。)

嫁資は乱婚と婚姻のダイナミズムに深く関与している。
古代バビロニアでは婚姻前に一度は神殿売春をする事が義務であり、王族や貴族の娘も例外ではなかった。女性は神殿売春で稼いだ金を結婚資金とするしきたりだったという。
娘による相続権の独占はこの一般女性の神殿売春を廃止する事と表裏一体であった。しかしやはり嫁資は女性側によって用意されるのであり、この嫁資制度がアプロディテ的乱婚制を覆しても母権制そのものを覆すまでには到らなかった事を示している。




バッハオーフェンの記述では自然法が大地的、女性的なものであるとまず示され、次にその原初的形態は乱婚であると示される。しかし自然法としての乱婚は安定せず一夫一婦制へと移行して第二の自然法を作る。

自然法は啓蒙主義者の様に先験的に固定されたものではなく、発展していくものとして把握されるのであり、このバッハオーフェンのロマン的・歴史主義的発想を理解せずに啓蒙主義者の演繹的論理を期待すると彼の叙述は非常に混乱しているように見えるのである。



アマゾン的原理

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(3)アマゾン的原理

アマゾン族はホメロスの「イーリアス」、ディオドロスの「神代地誌」、ヘロドトスの「歴史」の他、様々な神話、歴史書に登場し、エウリピデスの「ヒッポリュトス」でも取り上げられている。バッハオーフェンの「アマゾン的女性支配」は女戦士アマゾン族よりずっと拡張されたものとして把握されているが、分かり易いようにやはりギリシャ神話のアマゾネスの説明から始める。

アマゾネスはコーカサス地方に住む女性だけの部族である。人口を増やす必要があると他の部族の所へ行って適当に交わり、男の子は生まれると同時に殺され、女は弓を引きやすいように右の乳房を切り取って育てたという。
一時は小アジアからインド近くまで支配しリュキアにも迫ったが、ベレロポンがこれを撃退したという。
ヘラクレスがアマゾネスの女王ヒッポリュテスの持つアレースの帯を奪った事、アテナイの英雄テセウスがその時女王の妹アンティオペーを拉致し妻とした事、などの伝説からギリシャ人を憎み、ギリシャ軍と何度も戦争している。
トロイア戦争でもトロイア側について闘い、女王ペンテシレイアがギリシャ軍のアキレウスに殺されている。ペルシャ戦争でもペルシャ側について敗戦した後、勢力が衰え、小アジアを放棄、コーカサスへ退却、さらにアフリカへ逃亡したと言う。

バッハオーフェンはこれを拡張し、極端な男性排除、女性による暴力的支配をアマゾン的原理とする。

神話によればレムノス島の女性はアプロディテの呪いで体が臭気を発し、男たちは別の土地の女性を連れて来て妻としたので、侮辱されたレムノスの女性は父や夫を皆殺しにした。
またアルゴス王ダナオスの50人の娘たちは集団結婚を強制され、婚礼の晩に夫たちを短剣で皆殺しにした。
またクリュタイメストラが夫のアガメムノンを殺したのもその例とされる。

バッハオーフェンはそれを母権制の野蛮への後退、堕落形態と見るが、同時にその起源をさかのぼれば、品位を落とされた女性の絶望的な怒り、権利を取り戻す闘い、血の復讐として成立したものであり、母性を尊重し女性の尊厳を回復する事でデメテル的母権制を準備するものでもあると考える。

このようにバッハオーフェンの母権論では全てが内的矛盾を孕みアンビヴァレントな価値を持つのであり、一方的に進化、進歩するのではない。

アマゾン的男性排除はアプロディテ的乱婚制の中で既に準備されている。なぜなら乱婚制では男性の人格は問題にならず、ただの種馬的存在でしかない点でアマゾン的原理と共通するからである。
デメテル的母権制ではこの「男性の排除」が「夫以外の男性の排除」にとって替わられる。

バッハオーフェンでは神観念は生活と表裏一体であり、神観念の純化は生活の向上と結びついている。アマゾン的原理ではデメテル的母権制と同様に月が宗教的に大きな意味を持つ。

デメテル的母権制では「月は婚姻の形姿であり、太陽と月との結合を特徴づける排他性を表現する」のに対し、アマゾン的原理の月は「その夜の孤独な姿において謹厳な処女であり、太陽から逃亡するという点で婚姻の継続の敵対者であり、その冷ややかな笑みを浮かべ永遠に満ち欠ける顔はさながら恐ろしい死をもたらすゴルゴンであり」より陰鬱で厳格な性格を持っている。



アマゾン的原理からデメテル的母権制への移行は定住、都市建設、農耕の開始を伴い、女性の本性に深く関係しているが、歴史的にはデメテル的母権制からアマゾン的原理に退行する場合も多い。

アマゾン的原理からデメテル的母権制への移行はリュキアのベレロポン神話に典型的に現れている。

プルタルコスによればベレロポンはアマゾネスのリュキア侵略を撃退したが何ら報われる所が無くリュキア王イオバテスからも軽視されたので、海へ入り、この地が荒廃し不毛の地となるようポセイドンに祈った。
すると大津波が来て大地を沈めた。男たちはベレロポンに助けを求めたが聞き入れられず、女たちが着物の裾をまくり上げて女性器を見せるとベレロポンはたじろぎ、恥じ入って海へ引き返した。すると津波も引いた。

バッハオーフェンはこの神話をベレロポンが女性に対し二重の関係に置かれていると見る。一つはアマゾネスに闘いを挑みこれを征服した事、もう一つは女性器を見せられて退き女性を承認する事で母権制の創始者とされる事である。

一方では勝利、他方では屈服を示すこの二重の関係は母権制と父権制の闘争、父権制がアマゾン的原理を克服するが母権制そのものには勝てなかった事を表し、女性の性の力が大地の豊饒と重ねられていると彼は考える。

ディオニュソス的原理

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(4)ディオニュソス的原理

ディオニュソス的原理に関してバッハオーフェンの説明は重層的で複雑である。ディオニュソス神話については以前書いたので、cf.http://blogs.yahoo.co.jp/bashar8698/38869689.html ここでは繰り返さない。

要はそれが酒の力を利用し歌と踊りの狂乱を引き起こす事、女性に担われる事、エロス的な陶酔を伴う事、牛や豚の生け贄を解体する性的サディズムを伴う事、などが核心である。


バッハオーフェンによればディオニュソスは矛盾した重層的性格を持っている。

第一にそれはアマゾン的女性支配に対する敵対者である。
アプロディテ的、アマゾン的原理の「男性排除」に対し融和と好意の精神で女性を魅惑し、その性的支配を承認させ、婚姻願望を起こさせる。

第二にデメテル的・農耕的母権制に対しては、女性にエロス的傾向を賦与する事によって、またデメテル的母性の厳格な規律に対し、感覚的欲求と超感覚的欲求を共に満足させる狂乱(オルギア)によって、規律を破壊し無秩序を志向しアプロディテ乱婚制へと回帰させる機能を果たす。

この肉体の解放は政治的解放と関係があり、生活を物質的法則に回帰させ、生活の感覚化を引き起こし、民主性、自由と平等を志向し、そしてニーチェと共にプロイセン的な近代市民主義を嫌うバッハオーフェンにとっては国家を瓦解させるものである。

デメテル的母権制とディオニュソス原理の関係はデメテルを象徴する麦穂とパンがディオニュソスの葡萄酒の前に屈した事に象徴されている。

第三にディオニュソスは女性の為の宗教であり、女性たちを支配し、女性たちによって担われる。それにもかかわらず、ディオニュソスの本質は父権的なものであり、次に述べる「アポロン的父権制」と比較される「ディオニュソス的父権制」を実現する。これはディオニュソスの建設的側面である。

つまりディオニュソス原理は「ディオニュソス的女性支配」と「ディオニュソス的父権制」の両面を持つのである。これが父権制の成長の過程として時間的経過と象徴的に比較されると、次の様になる。

(1)ディオニュソス的女性支配・・・・息子としての太陽が未だに母なる夜に支配されている朝。未だ昼は「夜のように暗い昼」である。
ローマ神話の曙の女神マテル・マトゥタに象徴される。マトゥタの祭祀マトゥラリアではマトゥタが闇を鞭で神殿から追い払い姉妹の夜の女神が生んだ太陽を可愛がる儀式を行う。
(2)ディオニュソス的父権制・・・・太陽は天頂に達し母なる夜の束縛から完全に開放され、母が光り輝く太陽に従属する。太陽と父性が正確に一致しファルロス(男根)的太陽は受胎する子宮を探し求める。
(3)アポロン的父権制・・・・これは次回説明するが、父権制が男根的肉体性から脱し純粋な精神的高みへと上昇する。


こうして見ると母権制も父権制も肉体的、本能的な形態からより安定した精神的な規律、秩序へと昇華されて行くものとして描かれるが、性的本能も野蛮なものとして否定的に見られる一方で、それが「自然法」「本来のあり方」であるという対立する見方が常に強調される。まして父権制と母権制に優劣をつける判断はバッハオーフェンはしていない。

中間考察 バッハオーフェンとフロイト

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バッハオーフェンの見方は性的本能を一貫して原点に置く点でユングよりフロイトに近く、その原点(自然)は抑圧または変形されない限り社会を解体する方向へ作用する、という点でライヒやマルクーゼよりもやはりフロイトに近い。バッハオーフェンは母性を賛美しているにもかかわらず、彼自身はかなり父権的、オイディプス的人間であると言える。
しかしデメテル的母権制に関する分析だけはフロイトよりもユングに近い。

ドゥルーズはバッハオーフェンのデメテルをマゾッホの理想的女性の一つとして、これをフロイトの用語を使って「口唇的な母親」と呼んでいる。
(もちろんこれは母親自身が口唇期固着なのではなく口唇期段階にある幼児が求める母親像の意味である。)cf.http://yokato41.blogspot.jp/2013/06/blog-post_12.html

しかし僕の印象ではバッハオーフェンのデメテル理解はもっと健全で厳しい規律を持つものである。それは「母性」を核心とするが、口唇期に求められるような無分別な無限抱擁やアプロディテ的肉体性とは一線を画している。
彼によればデメテル的母権制の時代は密儀という形で宗教を最も深化させた時代であり、敬虔、神への畏怖、節制、遵法の点で最も優れた時代なのである。(この母性の内容についてはまた後に再考する。)それはフロイトの理論で言えば「自我」に最も近いと思われる。

これに対しアマゾン的原理とディオニュソス的原理がどちらも矛盾を持った、しかもサディスティックな傾向を帯びているのが対照的である。デメテルが自我的だとすれば、アマゾンとディオニュソスは超自我的なのだ。しかもリビドーがサディズム肛門期に退行していると考えればバッハオーフェンの母権論全体の俯瞰図が見えてくる。
ここまで来れば アプロディテ乱婚制がエスに当たるのはすぐに解るだろう。

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フロイト理論では超自我は良心の根源だが、それは決して理性的なものではない。理性を働かせ快感原則と現実原則を調停するのは自我である。
超自我は「母親への性的愛着」「それゆえの父親への憎悪」「それゆえの罪悪感」という三重のオイディプス的葛藤による心的外傷を内部化して発生するのであり、従って核心は性的なものに有り、いわばエスと裏でつながっているのである。
何らかの理由でリビドーの発達がサディズム肛門期に固着、または退行するとリビドーが攻撃的な性格を帯び、下のエスと上の超自我によって自我が挟み撃ちにされ攻撃される形となる。強迫神経症はこれと関係すると考えられる。
バッハオーフェンの叙述で「アマゾン的女性支配は乱婚制と最も密接に結びついている。」またディオニュソス宗教が「他のいかなる宗教にもまして女性を完全にアプロディテ的自然状態へ回帰させた。」とあるのがこれと全く符合する。

またユング理論で考えればアマゾンとディオニュソスは「否定的アニマ」、
デメテルは「肯定的アニマ」に当たると思われるがそれはまた後に考察する。

アポロン的父権制

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(5)アポロン的父権制

アポロンは竪琴と弓矢の神である。初めから文武両道の神として、そして何よりも預言、神託の神としてデルポイのアポロン神殿に祀られる美しい神である。トロイア戦争ではアポロン神殿の女性神官をアガメムノンが陵辱した事が戦争の一原因であった事が示唆され、トロイア側に加担している。(下はベルヴェデーレのアポロン)
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パルナッソス山の麓にあるデルポイはB.C.2000年頃からギリシャの先住民ペラスゴイによって信仰されていた大地母神ガイアの聖所があり、神託が行われていた。大蛇のピュトンがそれを守っていたが、国中を荒らし住民や家畜を殺していたため、B.C.10世紀頃アポロンは弓矢でピュトンを退治し、以後デルポイはアポロンの神託所としてギリシャの精神的中心地となった。スサノオのヤマタノオロチ神話を彷彿とさせる話だ。後にアポロンは太陽神とも同一視される。(下はデルポイのアポロン神殿跡)
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しかし遅くともB.C.8世紀にはアポロンが不在の冬の間だけデルポイを守護する存在としてディオニュソスが合祀されるようになった。ディオニュソスは次第にギリシャで広く認知されるようになり、アテナイでは毎年4回ディオニュソス祭りが行われたという。それはまたギリシャ悲劇やオルペウス教の中にも生き続け、ヘレニズム時代にはプトレマイオス朝エジプトにおいて国教的な地位にまで昇りつめた。
これはバッハオーフェンにとってはアテナイにおけるアポロン的父権制の挫折を意味する。彼はアポロン的父権制はローマ帝国の理念によって初めてデメテル的母権制に勝利し確立されたと見る。
バッハオーフェンにとって最も大きな対立は、アポロンとディオニュソスではなく、アプロディテとデメテル、そしてデメテルとアポロンなのだ。

デメテル的母権制とアポロン的父権制の葛藤は文明の根幹をなす理念型として考えられている。母権制の月信仰に対する父権制の太陽信仰(エジプトと日本では太陽神の女神がいるが、その問題はまた後に考える。)、左手の優位に対する右手、夜に対する昼、母性の「物質的拘束性」に対する父性の「精神的発展」、「無意識的法則」に対する「個人の意志」、「自然への帰依」に対する「自然の超克」、母性の「不変の静穏」「未成熟のまま老化する肉体」に対する父性の「克己と苦悩に満ちたプロメテウス的生活」、そしてデメテル密儀の希望が「母の無償の賜物」であるのに対し、アテナイやスパルタの人間は全てを実力で闘い取ろうとする。

このプロメテウスのくだりを読めば、ニーチェの「ディオニュソス」の中にはバッハオーフェンの言う「アポロン」の要素が混じっている事が分かる。もちろんバッハオーフェンのディオニュソスの要素も、また(暗闇のイメージの様に)デメテルの要素も混じっている。
従ってバッハオーフェンのアイデアを理解するにはニーチェの「アポロンとディオニュソス」のイメージを一旦捨てて元来の歴史的、及び神話的意味に帰らねばならない。

次回にその前提の知識としてデメテル女神のエレウシスの密儀、オルペウス教、ピュタゴラス教、イーシスとオシリス信仰、プトレマイオス朝エジプトのディオニュソス教について概観した後、バッハオーフェンがギリシャ、ローマ、エジプトの神話と歴史にどのような相似象を見出し、そこに母権制と父権制の闘いの痕跡を見てとったか検証しよう。

密儀宗教 (1)

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バッハオーフェンは密儀宗教が本質的に母権的なものである事を鋭く指摘している。
「女性支配が認められるところにはどこでも、女性支配は地下的宗教の密儀と結びついている」

中国や日本でも真言密教や道教は女性的な性格を持ち性的な秘儀を持つ。逆に男性的な禅宗は世界に「隠された知識」(グノーシス)が有る事を否定し、やはり男性的な日蓮宗は天台宗の密教化を激しく断罪した。

古今東西、排他的な宗教原理主義は男性的であり、神仏習合などのシンクレティズムは女性的である。なぜなら包容性、寛容性は女性の持つ偉大な性質だからだ。
近代化の過程では男性的、原理主義的な宗教が絶対主義国家の形成に役立ち、反近代の社会では女性的な密教が社会のモナド的構造を支える役割を果たす。カルヴィニズムや現代のイスラム主義が中世的神秘主義を嫌い、日本の平田派国学が神仏習合を攻撃したのも根本的には同じ論理が働いている。


ヘレニズム時代の密儀宗教は長い間誤解されていたとバッハオーフェンは訴える。それはポリス時代の信仰の堕落した姿と見られていた。しかし父権制より母権制が原初的であり、歴史的にも先行する事が多いのと全く同様に宗教の原初的形態は密儀宗教なのだと彼は考える。

地中海世界の密儀宗教には共通点がある。それは「死と再生」「不浄な肉体の中で苦しむ魂」そして「輪廻・転生」が中心テーマになっている事だ。



<エレウシス密儀>

エレウシスはアテナイの郊外にある都市である。ここのデメテル神殿で行われたエレウシスの密儀はギリシャの密儀宗教の中でも最も古く、伝説によれば B.C.17世紀にまでさかのぼれると言われている。もちろんこれはいわゆる「暗黒時代」以前、つまりヘラス民族以前のものであり、アテナイ地方に有ったのはペラスゴイ人の母権社会だったと思われる。
(下の写真はエレウシスのデメテル神殿跡とエレウシス秘儀を描いたレリーフ wikipediaより)
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エレウシスの秘儀の詳細な内容は口外の禁止(口外した者は殺された)と4世紀のゴート人の破壊により失伝してしまったが、その断片的な記録からその中心思想を知る事はできる。

儀式は春の小密儀と秋の大密儀の2回行われた。
大密儀は8日間にわたって行われ、前半はアテナイの祭壇に供物を捧げ、後半はエレウシスで秘密の儀式に参加した。それは冥界から帰って来たペルセポネの仲介により死後の幸福を保証するもので、供犠の仔豚を抱いて海に入って禊ぎ、殺してデメテルに捧げた後、「ペルセポネーとハデスの聖婚」「デメテルの悲嘆とペルセポネーの捜索、発見」「デメテルとの合一」を再現する儀式を行ったらしい。

仔豚は麦の豊饒をもたらすものと考えられギリシャ各地で供犠に使われたそうだ。そうするとこれは穀物の豊作を祈る儀式にデメテルの神話が重ねられたと考えられる。日本の天照大神の「天の岩戸」神話との共通性が注目される。
性的暴力によって引き起こされる女神の怒りと悲しみ、それによる大地と農業の荒廃、そして最後に癒やしによる回復という点で全く同じである。



<オルペウス教>

オルペウスはアポロンとムーサイのカリオペの息子で、彼の弾く竪琴の音色は人間はおろか動物や神々さえも魅了する魔力を持っていた。彼はニンフのエウリディケと結婚し、毎日草原でエウリディケに竪琴に合わせて歌を歌って聴かせ、エウリディケはそれにうっとりと聴き惚れた。

ところがある日、エウリディケは草むらの蛇に咬まれて死んでしまった。オルペウスの悲しみは限りなく、竪琴を弾くのもやめて川岸の草むらで座り込み、溜息をついては涙を流した。彼はついに決心し、冥界へ妻を帰してもらいに行く。

三つの頭を持った番犬や番人を竪琴の演奏で酔わせ、面会したハデスもオルペウスの竪琴に感動し、「地上へ着くまで決して振り返ってはならない」という条件を付けてエウリディケを返す事に同意する。しかしオルペウスは地上へもどる一歩手前で本当にエウリディケが後からついて来ているか確かめたくなり、後ろを振り返ってしまった。こうしてエウリディケは二度と冥界から帰れなくなり、悲しみにくれたオルペウスはそのまま食を断ち死んでしまった。
日本のイザナギとイザナミの神話を彷彿させる美しい物語である。

ところがこの後には不気味な神話が付け加えられる。
エウリディケを失ったオルペウスは女性に興味を失い、トラキアで少年たちと暮らした。ここから彼は同性愛の祖とも言われる。これをトラキアのディオニュソス教信者の女性たちは侮辱と受け取り、彼を殺して死体を切り刻みヘブロス川に流してしまう。彼の頭部と竪琴だけがレスボス島で見つかり葬儀が営まれた。(下はオルペウスの首と竪琴を運ぶトラキアの女性。ギュスターヴ・モロー作)

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美しいオルペウス神話に恐ろしいディオニュソス=ザグレウス神話の要素が混入したのである。オルペウス教の中でザグレウス神話はマニ教的な善悪二元論とウパニシャッド的な輪廻説を統合した密教として完成する。
それによれば、ザグレウスは蛇に化けたゼウスがペルセポネーと交わって生まれたが、ヘラの嫉妬によりティターン族に襲われ八つ裂きにされ釜ゆでにされて食べられてしまう。怒ったゼウスはティターン族に雷を浴びせ全てを燃やし尽くした。この時ティターン族の灰とザグレウスの灰が混じり合い、そこから人間が生まれた。人間はザグレウスを殺して食べたティターンの原罪を引き継いでいるので魂が肉体に囚われ輪廻すると言うのである。

オルペウス教ではこの輪廻から解脱するため、禁欲と菜食主義を実行する。
霊肉二元論、輪廻からの解脱、反宇宙論などグノーシス宗教の典型と言われるマニ教の原型がほぼここに出尽くしている。

グノーシス宗教は「死別の悲しみ」と「サディズム、カニバリズム」の合体から生まれているのだ。ただしオルペウス教はディオニュソス教を吸収、継承しながら、その生肉食といった性的サディズム、カニバリズムの要素は消えている。ただ性的秘儀は残っていた可能性がある。



<ピュタゴラス教>

小アジアのサモス島で生まれたピュタゴラスは青年時代にオリエント世界を広く旅行し、ペルシャのゾロアスター教を学び、エジプトでイニシエーションを受けた後、40代で南イタリアにあるギリシャ人植民都市クロトンで神秘教団を作った。

彼はオルペウス教に深い影響を受けたが、それに付け加えたのは数学、音楽、天文学の一貫した体系である。ピュタゴラスの数学は魔術であり、数秘術や占星術とつながっていた。

ピュタゴラス教はオルペウス教の影響で、輪廻転生論や菜食主義を唱えたが、そのオルペウス教的部分と数学を中心とした教義の間に論理的繋がりは認められない。教団では競走やレスリングで身体を鍛えたそうだから、恐らくオルペウス教的な肉体蔑視から肉体と精神の調和の思想に転じていたと思われ、中庸と調和を根本精神とし、共産主義と男女の平等を主張したと言われている。
ここではオルペウス教の影響は有ってもディオニュソス教の性的狂乱の要素は完全に払拭されている。

密儀宗教 (2)

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<イシス・オシリス信仰>

エジプト神話の中でもイシスとオシリスの神話は西欧のキリスト教神秘主義、ひいては西洋魔術の中に取り込まれた点でヨーロッパ思想史にとって非常に重要な意味を持つ。

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   オシリス                   イシス


オシリスは穀物の生育の神であり、法や慣習を生み出した神でもある。彼は妹のイシスと結婚しエジプト王となるが、弟のセトはこれを妬んで殺そうと陰謀を企んだ。セトはオシリスと等身大の棺を作って豪華な装飾で飾り立て「これに身体がぴったり入る者にこれを与える」と宣言する。オシリスが棺に入るとすかさず蓋をして釘を打ち、ナイル川に流してしまった。

妻のイシスは夫の失踪を嘆き悲しみ、世界中をめぐってフェニキアのビブロス港で遺体を見つけ、艱難を重ねてこれをエジプトまで運びブートーの沼地に隠した。しかしセトは執念深く探し出し、死体を14に切り刻んで各地にばらまいた。

イシスは挫けずパピルスの船で再びエジプト中を回りセトの妻ネフティスの助けを借りて死体の欠片を探し出し13個までは集める事に成功した。そして他の神の助けを借りて魔術を使い冥界で生き返らせる事に成功した。ここからオシリスは冥界の王となる。

オシリスとイシスの神話はセトの妬みとイシスの夫への愛の長く執念深い闘いの物語だが、オシリスの死と再生、イシスの夫を復活させる魔術に注目され、ギリシャ神話の ディオニュソス、オルペウス、デメテル等の神話と重ねて見られるようになったようである。

オシリスは穀物を育てるナイル川の水、精子であり、イシスはナイルの水を精子として受け止める大地母神である。そしてオシリスは死んだ後、復活を果たす冥界の王であり、イシスは復活の魔術師である。

ここには「愛する者の死」と「女神の嘆きと怒り」「癒しによる再生」が「穀物の死と再生」の循環と重ねられる点でデメテル神話やアマテラスの天の岩戸の神話と共通している。

ギリシャにおけるデメテルの大地母神の役割をエジプトではイシスが果たしていた事は容易に想像できる。しかもデメテルや天照大神のようにストライキを起こす事も無く夫に献身するけなげで柔和な女神である。
実際にイシス信仰では肉食や飲酒は禁止され、ピュタゴラス教的な瞑想的団体だったようである。


イシス・オシリス信仰は公の祭儀と一般には公開されない密儀があった。
公の祭儀ではイシスがオシリスの身体を探すのを再現した「イシスの船」と呼ばれる航海、またオシリスの死と復活を再現する儀礼が知られている。

密儀はイシスの小密儀とオシリスの大密儀、そして奥義密儀があり、小密儀だけが「黄金のロバ」という小説から知る事ができる。それによれば地下の部屋で物質的感覚を遮断し四大元素によって浄化された後、順に神々の部屋へ上って行き、最後に光りと共に自我の核としてのオシリスと対面する、といった瞑想的儀式を行ったらしい。四大元素による浄化など、現代の西洋魔術のメソッドが既にある事に驚かされる。




<セラピス信仰>

ディオニュソス信仰はギリシャからエトルリアを通してローマへも伝わった。外征から帰還した兵士から始まり平民から貴族にまで浸透し、毎月5回も行われるまで流行した。
その性的狂乱や反権力性にローマの政治家たちも危機感を持ち、B.C.186年には元老院がディオニュソス密儀禁止令を出している。この時約7000人の信者が逮捕・処刑されたと言う。

しかしそれより100年以上も前にディオニュソス信仰はエジプトのオシリス神と合体し「セラピス信仰」として新しい生命を獲得していたのである。何度も殺されては再生するディオニュソスらしい話だ。

アレクサンダー大王の遠征によって成立したマケドニア人によるプトレマイオス朝エジプトは代々「プトレマイオス」を名乗るマケドニア人のファラオと「ベレニケ」「アルシノエ」「クレオパトラ」を名乗る女王によって共同統治された。プトレマイオス1世(在位 B.C.305~282)はギリシャ人とエジプト人の融和を図るため積極的に宗教統合を推進し、オシリス、メンフィスで信仰されていた牡牛神アピス、ギリシャのディオニュソスを統合し「セラピス神」を作った。(下写真)アレキサンドリアにセラピス神殿が建設され、イシス・オシリス祭儀やエレウシス祭儀の要素も取り込まれた。

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ローマ帝国に統合されて以後もセラピス信仰は生き続け、皇帝ネロ、ドミティアヌス、ハドリアヌスはセラピス=ディオニュソス信仰に染まった。
民衆レベルでは一時キリスト教とセラピス信仰が混合していたようである。


ジュニア・マンス 「Don't Cha Hear Me Callin' To Ya」

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難しい話が続く中でのリラックス・タイム。

ジュニア・マンスはスタンダードよりブルース・ナンバーの方がずっと良い。
ジミー・スミスと同様、根が R&Bなのだろう。


ジャズ・ピアノを聴きだした頃、ジュニア・マンスの「Junior's Blues」というアルバムに酔いしれて、ほぼ全曲コピーした。それは今でも僕の大きな財産になっている。YouTubeに無いのが残念だ。

リュキア (1)

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バッハオーフェンは古代リュキアに母権制が典型的に現れていると見なしており、従って彼の母権制の概念を検証するにはリュキアの例から始めねばならない。
彼は常に社会の法的側面と宗教的側面の両方を観察し、その間の連関を明らかにしようとする。外的因果連関と内的意味連関は区別されず、神話と同様に叙事詩や悲劇も参照され、それらは神話と区別されない。方法論としては素朴であるが、豊富な例証がそれを補っている。

まずリュキアでは母方の家系を名乗り、遺産は娘に相続される。
市民権を持つ女と持たない男の間に生まれた子は嫡出子と認められるが、逆に市民権を持つ男と持たない女の間の子は市民権を与えられない。
またリュキアには成文法が無く、不文の慣行が有るのみである。
(ここには成文法の男性的性格、慣習法の女性的性格、さらには演繹的思考の男性的性格、帰納的思考の女性的性格、という興味深いテーマが隠されているが、バッハオーフェンはこの問題をあまり追及していない。)
以上、家系の辿り方、相続、市民権の継承、の3点がリュキア母権制の法的側面として挙げられる。この内、相続は乱婚制における女性の苦難を克服しようとするものである事は前に述べた通りである。



リュキアではとりわけベレロポンの神話が重要な意味を持つので、あらためてその概略を述べる。


コリントス人のベレロポンは、誤って兄弟を殺しコリントスから追放され、アルゴス王の下に身を寄せた。この時、王妃ステネボイアが、ベレロポンに恋をし誘惑したがベレロポンは拒絶した。これを恨んだ王妃は自分が言い寄られ犯されそうになったと王に訴えた。(ラシーヌのフェードルを彷彿させる)
 アルゴス王はベレロポンに手紙を託し、リュキア国に行かせた。
手紙には、この若者を殺すようにと書かれていた。

リュキア王イオバテスはベレロポンを殺すために怪獣キマイラを退治するよう命じたが、ベレロポンはアテナ女神の助けで天馬ペガサスを操り勝利を収めた。その後も王はソリュモイ人やアマゾン族の撃退を命じたがベレロポンはペガサスに乗って闘い全て勝利した。

王は連戦連勝するベレロポンに驚き、自分の非を詫び、娘ピロノエと結婚させた。しかしベレロポンは次第に傲慢になり、ペガサスに乗ってオリュンポスへ行き神々の仲間に加わろうとし、
これがゼウスの逆鱗に触れた。
(下絵はペガサスに乗ってオリュンポスを目指すベレロポン)

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ゼウスは虻にペガサスを刺させて驚かせベレロポンは振り落とされた。
地上に落ちたベレロポンは、かろうじて命は取り留めたが、以後、足を引きずりながら乞食をして歩かねばならなくなった。



前に書いたように(http://blogs.yahoo.co.jp/bashar8698/39952060.htmlアマゾネスの侵略を退けたベレロポンが女性の願いで津波を引かせた神話は男性原理がアマゾン的女性支配には勝ったがデメテル的女性支配には屈した事、そして男性(津波=海=オケアノスまたはポセイドン)の受胎させる力が、女性(大地=母=ガイア)の受胎する物質的力に高い権利を認めた事を象徴している。

ここでは下のメタファーによる対比が示されている。

男性原理・・海、川、(精子)・・オケアノス、ポセイドン
女性原理・・母なる大地(子宮)・・ガイア、デメテル

これはまた、「母性の尊重」は「生命を育むものとしての子宮の尊重」であり「女性器の尊重」でもある事、従って後のかなり高度な倫理と結びつかない限り、原初的には神殿売春などアプロディテ乱婚制的特性とすれすれの関係にある事も示唆している。アプロディテとデメテルは前にも示した様に相克と相生の両義的な関係にあるのだ。



次にアルゴスでベレロポンは貞潔を貫こうとした為に王妃ステネボイアから誹謗されたわけだが、バッハオーフェンはこれをアプロディテ的乱婚制とデメテル的母権制の葛藤を表していると解釈する。
アプロディテとデメテルは次のメタファーによって示される。

 アプロディテ乱婚制・・・・湿地帯の自生植物
 デメテル的婚姻原理・・・・大地に手を加える農耕

大地は鍬で傷付けられ子宮は男性器によって傷付けられる。愛の原理とは傷付ける事であり、それゆえにアモールは矢を放つのである。男は鍬とか種蒔き人としか見られず、その後は忘れられる存在である。

ローマ法はこの命題を法文化した。ユリアヌス法やバシリカ法の「作物の収取は全て種子の権利ではなく土地の権利による」あるいは「作物は種子ではなく土地に属する」という原則である。
このローマ法によってリュキアの市民権の継承における原則も農耕からの比喩である事が推定される。

「子が父ではなく母に属し母の地位に準ずる事」は「作物が種子ではなく土地に属する事」と相似象をなしているのだ。
しかしこれは「娘による相続」と同様、母権制の女性上位が「父親が誰か分からない」アプロディテ乱婚制を引きずっている事も意味する。
女性の優位は女性の苦難と裏表である。


バッハオーフェンはアプロディテ乱婚制の例としてアラビアやアフリカの幾つかの部族を挙げ、乱婚制と婚姻制が対立しながら両立し、多くの中間段階がある事を示した上で、女性が共有される結果として子供も共有される事、その結果、男性が子供との関係から排除される事、女性と子供の共有が共同体の結束力を保証している事(!)を説明し、それが人間よりも蜜蜂の社会において最も純粋な形を示していると言う。

一匹の女王蜂に対して雄蜂の数は多く、この雄蜂たちに女王蜂は愛情というものを抱かない。授精という役割を終えた雄蜂は巣から追われたり殺されたりする。蜜蜂と女王蜂は魔術的な愛着で結ばれ、この愛着だけが蜂社会をまとめ、女王蜂が死ぬと蜜蜂は全ての結束を失い、ひたすら自分の為だけに餌を求めて死ぬ。

母権社会と蜜蜂の連関は他にも有る。蜂蜜は動物の産出物と植物の産出物が緊密に結びついて作られ自然の有機的産出物の代表であるという事だ。生まれたばかりのゼウスは蜂蜜で育てられる。ピュタゴラス教の人々やメルキゼデクやバプテスマのヨハネもこれを食した。

蜂蜜は葡萄酒と比較され次のメタファーとなる。

母性原理・・・・・・・・・・・蜂蜜、乳
ディオニュソス原理・・・・・・葡萄酒




ベレロポンはゼウスの逆鱗に触れ、真っ逆さまに落ちて足を引きずるようになりさらに二人の子供も失うが、ここで彼はヘラクレス、ペルセウスなどの他の母権制の征服者と比較される。

「ベレロポンは敗北した事で、他の母権制の征服者たち、ヘラクレス、ディオニュソス、ペルセウス、そしてアポロン的英雄であるアキレウスやテセウスとは区別される。後者の英雄たちがアマゾン的女性支配とともにいっさいの女性支配を打ち破ると同時に、全き光の力を与えられた者として、父権制という非物質的な太陽原理を大地的な母権制の物質的原理に勝利させたのに対して、ベレロポンは天光の純粋な高みにまで達する事ができなかった。」

 ベレロポンの自然的基礎は大地の水とそれを取り巻く大気(エーテル)である。彼の使ったペガサスは天を極め、曙女神(アウローラ)に仕えて毎朝光輝く太陽神がやがて到来する事を告げる。しかしペガサスは太陽の使者であり太陽そのものではない。

バッハオーフェンの依拠するギリシャ神話系では水はオケアノスやポセイドンに示される様に男性であり、男性原理は水や大気から始まるが、その段階では大地のデメテル的女性原理に勝てないのである。
それが太陽神アポロンに移され、即ち大気圏を脱して初めて安定した男性原理を打ち立てる。そしてそれは男性原理が非物質的なものである事と相似象をなしている。ここではベレロポンとアポロンが次のメタファーで比較される。

ベレロポン・・・津波(水、大気)・・・大気圏内で循環
アポロン・・・・光・・・・・・・・・・大気圏外



ベレロポン神話にはもう一つの側面が有る。それが死の思想に支配されているという事だ。彼は子供に先立たれ、最後には自分も墜落して死の直前までいく。彼が属するのは天空の高みにある不死の世界ではなく死すべき運命の世界である。しかしそれは生と死の循環の中で種としての命が長く保たれる事でもあり、生々流転の世界、むしろ生と死を同一と考える世界であると言う。

マックス・ヴェーバーは「バガヴァド・ギーター」の中のアルジュナとクリシュナの問答に二つの世界観の衝突を見てとった。(「アジア宗教の救済理論」p.90~99)即ち「死すべき運命」を潔く引き受ける軍人の覚悟の不条理性と、全てが輪廻転生の中でカルマの法則として発現するウパニシャッドの因果応報説の衝突である。

ベレロポンも神の不公平を恨むが、それがかえって子供と自分の死を結果する。ベレロポンの不平不満は「運命の自覚」という所まで研ぎ澄まされないまま自然の生死の循環の中で砕け散って消えて行くかのようである。

リュキアのベレロポン神話の中ではニーチェの言う「人間の罪を是認するとともにその罪によって引き起こされた苦悩をも是認する」巨人的精神は見られない。ベレロポンは母権制を代表する存在なのだ。

「物質的な生の無常と母権制とは呼応しており、他方、父権制は光の世界に属する超物質的な生の不滅性と結びついている。」






本田竹廣 「Sunny」「朝日のようにさわやかに」

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本田竹廣の「Sunny」は僕がジャズを聴き始めた頃、オスカー・ピーターソンの「Wisper Not」と同じくらい感激した曲である。
これはもう僕が下手な解説をするより聴いてもらえば分かる。
乗りまくる若き本田氏の強く黒いタッチがなんとも言えない快感だ。


「朝日のようにさわやかに」も以前紹介したが、同じ若い頃の演奏なのでもう1回挙げてみた。よく聴くとピアノを弾きながら本田氏が「ワオーウオー」と唸っているのが聞こえる。情熱が有り余っていたのだろう。(笑)

イスラム国、壊滅(?)

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リチャード・コシミズ氏のブログによれば、ロシア航空宇宙軍による空爆でイスラム国はほとんど壊滅状態になったと言う。

僕はリチャード・コシミズ氏の言説はあまり信用していないのだが、今回の事に関しては少なくとも欧米や日本のマスコミの報道よりはコシミズ氏の判断の方が当たっていると思う。

アメリカが半年も空爆し続けて効果が無かったのに、ロシアが空爆したら一発で終わった訳だ。アメリカがこの間やってきた事は何だったのか、ロシアの空爆によって明らかになりつつある。


追記
欧米が支援していると称する「自由シリア軍」の実態に関して、この記事は必読資料であると思う。
http://matome.naver.jp/odai/2138008767102579701

リュキア (2)

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バッハオーフェンの考える自然法の「自然」とは生物学的自然であり、乱婚制、女性と子供の共有による一体的結合を核心とする。
結合の源泉は女性に有り、分離の原理は男性に有る。
プラトンが「国家」の中で財産のみならず女性の共有を主張したのは、それがスキタイ人を初め周囲の民族に普通に見られたからだが、アリストテレスがこれに反対したのは彼が分化こそ進歩であると考えたからである。
そしてバッハオーフェンはアリストテレスの考えを共有する。
「文明の進歩は多様なものを一つのものへと統合する事にあるのではなく、逆に本来的に一つであったものが多くの多様なものへと分化する事の内にある。」「婚姻制への移行は一元性を多元性へと導き、こうして秩序という最大の原理がもたらされたのである。」
ローマ法学者としての彼は市民法を自然法に基づき自然法から進化したものと考えざるを得ないのであり、ここに漸くロマン派としての彼とローマ法学者としての彼の2面性がはっきりする事になる。
自然法(乱婚制)・・・・生物的・物質的・・・・・一体的結合、共有
市民法(父権制)・・・・理念的・非物質的・・・・・分化、私有

バッハオーフェンは「一体性が自然」と考える点でドイツ・ロマン派的、ニーチェ的だが、「分化こそ進歩」と考える点でニーチェの「ディオニュソス的なもの」への反対者でありアダム・スミスとスペンサーの味方だ。彼はこの点では進歩主義者であり、そこから彼の発展段階説的発言が出て来る。
「女性支配と結びついた婚姻制は、それ自体純粋な市民法に、つまり父権および家父長支配と結びついた婚姻制に道を譲るのである。」
市民法は父権制で完成するのであり、デメテル的母権制は過渡期と見られているのだ。やはり分離、分化の原理は男性に有るのである。
こうして乱婚制、女性支配、父権制の3段階が大きな歴史の流れと見られた時、それはそれぞれ大地、月、太陽に対応する。

アポロン的父権制・・・太陽・・・不滅の光
デメテル的母権制・・・月・・・・生成流転の世界
アプロディテ乱婚制・・地球・・・生物的自然


このデメテル的母権制を象徴する月はどのような存在であろうか?
「月は大地界と太陽界の境界領域をなし、流転の運命にある物質的な世界にあっては最も純粋な天体であるが、永遠に不変の非物質的な世界にあっては最も不純な天体である。」(プルタルコス「イシスとオシリスについて」)
月は両性具有であり、ルナ(女性)であると同時にルヌス(男性)である。太陽に対しては女性であり、大地に対しては男性である。月は太陽によって授けられた受胎をさらに大地へと伝える。月は宇宙全体を一つに統合し、不死なるものと死すべきものを媒介する。(プルタルコス「神託の衰微について」)
ローマの歴史家スパルティアヌスによれば、月の神をルナと呼ぶ者は女に奴隷として仕える者であり、ルヌスと男性名詞で呼ぶ者は妻を支配し、妻のいかなる手練手管にものることはない。

母権制の過渡的性格は月の2面性、さらに両性具有と結び付けられる。月が動物の性と関係している事は昔から知られてきた。
西洋神秘学では月は非常に重要な意味を持つ。それは地球とエーテル体を共有しており、従って月の満ち欠けは地球上の生物のエーテル体にリズム、周期を作り出すのである。

母権制から父権制への移行は神話の中に見いだせる。
地上では母なるアテナ女神に仕え、天上では曙の女神アウローラに仕えるペガサスは太陽神ヘリオスの到来を予告する者であり、それはヘラクレスが将来プロメテウスを救う事を予告するのと同じ事と見なされる。アウローラはマテル・マトゥタと同じである。
インドやエジプトに伝わるポエニクス(=フェニックス、不死鳥)神話も母権制から父権制への移行を表現していると見なされる。
ポエニクスは500年に一度、香木や香料で作った巣に火をつけそこに座って焼け死ぬと言う。死ぬと新たに小鳥として生まれ替わり、没薬の木で卵を作り中を空洞にして父の亡骸を収めエジプトのヘリオポリスに運ぶと言う。
バッハオーフェンの解釈では卵は母権制を、火は父権制を象徴する。
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       15世紀の「ニュルンベルク年代記」に書かれたポエニクス(フェニックス)



リュキアはまた、男性の尚武の気性、戦争での勇敢さで有名だった。同じ事はカリアにもラコニア(スパルタ周辺)にも言える。アリストテレスは「好戦的で闘争的な種族の多くは、かかあ殿下のもとにある」と述べた。
これについてバッハオーフェンは二つの理由があると考える。まず騎士道精神と女性崇拝は精神的に親近性を持つからであり、次に男たちが戦争で遠く家を離れている事が女性の権力を強める事につながるからである。
スキタイ人の例がそれを示している。そこでは家族、馬車、家畜、奴隷など多くの事が女性の手に委ねられていた。女が相続権を独占するようになると、男は財産を受け継がないために次々と新しい戦争へ駆り立てられる事になり、この二つは下の様に相互に依存しあう事になる。

男が遠征で家を長く離れる
   ↑ ↓
女が相続権を独占する

しかしこうなるとアマゾン的女性支配、男性排除まであと一歩である。
男が戦争で女を多数略奪してくる、あるいは戦争で男が全滅する、などの理由で女達は武器を持って立ち上がる。バッハオーフェンはそれがレムノスやダナオスの娘達やアガメムノンの妻の伝説に表現されていると考えるのである。

クレタ

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歴史家のヘロドトスとストラボンはリュキアの母権制がクレタ島に発すると考えている。クレタのミノア文明は小アジアと並んでギリシャ文明の発祥地と見られる。
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                    地図はWikipediaより

Wikipediaによればミノア文明はB.C.3000年頃~B.C.1400年頃にエジプトとの貿易によって繁栄し、城壁の無い都市構造から平和で開放的な文明だったと推測されている。クノッソス宮殿の遺跡には女王の為の浴場、水洗式のトイレなど、上下水道施設が整備されていた。

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      迷宮ラビュリントスのモデルとも言われるクノッソス宮殿

クノッソス宮殿の威容についてはここに詳しく書かれているので参照してもらいたい。http://hp1.cyberstation.ne.jp/legend-ej/p-civil1982gremino-knos.html
合計1000以上もの部屋を持ち、複雑な廊下、迷路の様な地下室などを見ると、これこそラビュリントスそのものだったと僕は確信する。
上の資料から写真を2枚借用する。

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型にはまらない、リズムを持った優美な曲線、海の青をメインにした明るい色彩、アルカイック・ギリシャには無い、そしてアテナイ全盛時代のプラクシテレスに見られる開放性と自由な表現力が見られる。

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クレタではミノス王の神話が重要なのでその概略を述べる。それは牛に特殊な意味を持たせた神話である。

ミノスはクレタ王アステリオスの下で育てられたが、実はゼウスの子である。ゼウスはフェニキアのテュロス王の娘エウロペの前に白い牛に化けて現れ、面白がってまたがったエウロペをクレタ島に誘拐して孕ませた後、エウロペをアステリオス王に与えたのだった。(極悪非道な神である。苦笑)

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                     牡牛に化けてエウロペを略奪するゼウス、ティツィアーノ作
    
アステリオス王の死後、養子なので王位継承に不利なミノスはポセイドンに王位継承の証として深海から牡牛を送ってくれるよう祈った。ポセイドンはそれを了承する代わりに王位継承後その牛を生け贄として捧げるよう約束させる。
しかし王となったミノスはそのあまりに美しい牡牛を犠牲にするのがもったいなくなり、それを自分の物として別の牛を捧げた。
怒ったポセイドンはミノス王の妻、パシパエに自分が与えた牡牛に恋をするよう呪いをかける。パシパエは激しく欲情し牡牛と交わってできた子が半人半牛のミノタウロスだった。

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                               牡牛に恋をするパシパエ、ギュスターヴ・モロー作

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                                              ミノタウロス、ピカソ作

ミノス王はミノタウロスを迷宮ラビュリントスに閉じ込めた。
アテナイとの戦争の結果毎年1度アテナイから送られて来る14人の若い男女の奴隷をミノス王は餌としてミノタウロスに与えた(アテナイからの奴隷の頻度と人数には異説もある)が、ある時その中のテセウスがミノタウロスと格闘して勝ち、王の娘アリアドネの知恵で迷宮から脱出に成功する。
アテナイは初期の時代はクレタ島のミノア文明の支配下にあり、テセウスのミノタウロス退治伝説はミノア文明からの独立が背景にある。)

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                                            ミノタウロスと戦うテセウス

クレタでは牛が自然力の性的側面を表すものとしてよく登場する。牡牛に化けたゼウスに誘拐されるエウロペ、牡牛に恋をしたパシパエ、半人半牛のミノタウロス。その姉妹のアリアドネが結婚するディオニュソスもまた象徴として牛の角を持っている。

男性の象徴としての牡牛は地下や海の水と関係がある。ミノスがポセイドンに祈った牡牛は水底から現れる。そしてエリスやアルゴスの女たちはラッパを吹き鳴らして牛の足をした神を波間から呼び出し「汝来たりて我らを妊ませ給え」と祈る。しかし牛は次第に大地の水から月へ、さらに火へ太陽へと高められる。

月としての牛はエジプト神話の聖なる牛アピスに現れている。アピスは後にエジプトの記事で詳述するが月の光を受けて生まれる。同様にクレタの牡牛が白く描かれるのも月の光の性質に呼応している。

エウロペが誘拐されたので兄のカドモスは母と共に捜索の長旅に出るが、デルポイで神託を伺ったところ、「エウロペの捜索は諦め、雌牛の後をついて行き牛の倒れた所で都市を立てよ」との神託を受ける。このカドモスの牛は脇腹に満月の印をつけている。
バッハオーフェンによれば「多くの神秘的象徴表現では牡牛の額には二つの角によって包まれるように太陽が輝いているのに対して、この場合、月の印は胴体についている。」胴体は存在の物質的、肉体的な側面を表すからだ。


青銅人タロスもまたクレタの伝説である。
タロスはゼウスがエウロペに与えクレタ島に連れて行った青銅人であり、作ったのはヘパイストス、ダクテュロス、などの諸説がある。
タロスは毎日夜にクレタ島を回って守護し、近づく船に石を投げたり、青銅の身体を真っ赤になるまで高熱を発して相手に抱きつき焼き殺したと言う。

アポロドロスによればタロスはタウロス(牛)と同じと見られる。ミノタウロスも「ミノス王のタウロス」の意味である。タロスは夜通し海水につかって水音を立てる。この段階では大地の水であり夜にさすらう者としては月である。
しかしダクテュロスの鍛冶師によって作られ、戦う相手を熱で焼き殺す点では青銅を溶かす火山の火を象徴する。

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                              ハリーハウゼンの映画に登場する青銅人タロス

アリアドネが結婚するディオニュソスもまた「太陽の牡牛」である。ミノタウロスが「牛頭人身」であるのに対しディオニュソスが「人頭牛身」であるのは前者が月の段階の牡牛、後者が太陽の段階に高められた牡牛を象徴するからである。

このように自然の性的象徴としての牛が大地の水から月、火、太陽の全ての側面を持ち、前者から後者への時間的変化の傾向が見られる事に、バッハオーフェンはクレタ島における母権制から父権制への推移を読み取るのである。

リラックス・タイム

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次の記事のアイデアを整理するのにもう少し時間がかかりそうです。
さしあたってジャズ・ボッサでお楽しみ下さい。

中間考察(2)神話における牛と蛇の役割

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ここでバッハオーフェンは注目していないが大変重要だと思われるテーマ、
「神話における牛と蛇の役割」について考えてみたい。「太陽と月」「光と火と水」「父権と母権」の関係についての妥当性はバッハオーフェンとユング派心理学をもっと熟読するまで課題として残しておく事にする。

まずいくつかの例を挙げて、そこからメタファーを探るところから始めよう。

ギリシャや小アジア、エジプトなどの東地中海からイラン、メソポタミアにかけての広い地域で神話の中に「牛と蛇の確執」と表現できる普遍的なテーマが見られると言われる。
また中国や日本の神話では牛はあまり登場しないが、龍や蛇が非常に大きな役割を演じている。

これを太陽族(鳥、牡牛)と太陰族(龍、蛇)の二大トーテムとまで考える人もいるようだ。そこまで行かなくてもこれが世界の神話の中で多く現れるモチーフである事は否定できない。



<バビロニア>

「原初の海」の女神ティアマトは淡水の象徴アプスーに対し海の塩水を象徴する。ティアマトはカオスの海である。
夫婦になったティアマトとアプスーから生まれた若い神々は二つに分かれて争う事になる。
ティアマトは七俣の大蛇や龍や狂犬を作り、マルドゥクは嵐と雷を武器に戦うが、マルドゥク側の勝利で終わり、ティアマトを殺して二つに裂くとそれが海と大地となった。マルドゥクは「太陽神ウトゥの仔牛」の意味を持ち牡牛とされる。
ティアマトは後に龍神と見なされるようになるが、下の古い絵の表現を見ると龍ではないようだ。しかしティアマトが作り出した蛇や龍が、牡牛であるマルドゥクと戦ったという事が重要で、その後の地中海世界の神話のパターンの源基となる。

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           ティアマト(左)と戦うマルドゥク

ティアマト・・・・海水、カオス、龍、蛇や蠍の毒
マルドゥク・・・・太陽、雷、牡牛

蛇神は世界に秩序が現れる以前のカオスであり海である。それに対し牡牛は太陽、雷と関係付けられる。実は(バッハオーフェンが鋭く指摘している様に)牡牛神は月と見なされる場合と太陽と見なされる場合が有り、エジプトのアピス神話はその遷移を表している。



<エジプト>

エジプトではかなり古くから蛇信仰と牡牛信仰が見られた。

メンフィスの古い伝説では牡牛神アピスは月の神であり、さかりのついた雌牛に月の光が射した時に生まれたという。
しかし後には太陽信仰とも結び付けられ角の間に太陽円盤をつけた形で表される様になった。

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牡牛神アピス

アピスは特徴が定められ、全体は黒色、額には白い斑点、脇腹に白い三日月模様、などの基準でエジプトで探され、神の化身として崇められた。
ヘレニズム期にはディオニュソス神とも結びついてセラピス信仰となった。


一方エジプトの蛇信仰は王家を守護するコブラの女神ウラエウスと邪悪な蛇アポピスに代表される。アポピスは「原初の水」から誕生した邪悪と混沌の化身である。世界を混沌に戻そうとし、太陽神ラーを飲み込んで日食を引き起こすのもアポピスの仕業である。ラーは航路を邪魔するアポピスをナイフで切り刻んで戦う。

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         猫の姿をした太陽神ラーにナイフで切り刻まれる大蛇アポピス

アピス・・・・月、牡牛
アポピス・・・原初の水、邪悪、混沌
ラー・・・・・太陽、アポピスを切り刻む



<ペルシャ>

ペルシャのゾロアスター教では善神アフラ・マズダと悪神アーリマンの闘いの中で牡牛と月の神秘的な関係が語られる。

アフラ・マズダが世界の創造を始めると悪神アーリマンは嫉妬して闇の世界を造り善なる世界を滅ぼそうとした。水を塩水に、植物の生い茂る大地を荒野に変え、原初の牛と原初の人間を殺した。ここから世界に善と悪が混在する事になった。
原牛の死体から再び植物が生じ、牛の精子は月光で清められて動物が生じた。
原人の死体からは金属が生じ、その精子は太陽光で清められ大黄が生じ、それが今の人間の祖先マシュヤーとマシュヤーナグになった。

ゾロアスター教ではこれ以外でも牛と月は深い関係にある。
原初の牡牛は「月のように白く輝く」と言われている。
別伝では原初の牛の霊魂は月神マーから創造されたとも言われる。
太陽神ミスラは馬車で牽引され月神マーは牛車で牽引される。
(ローマの月神ルナ、ギリシャの月神セレーネーも牡牛が引く戦車に乗る。)

死体から動植物が生じたとするのは古事記のオオゲツヒメと同じであり、月光が牛の精子の代替物である、或いは等価であるという関係はエジプトのアピスと似ている。



<カナン>

カナンの神バアルは若い牡牛であると同時に雷神、嵐の神でもあった。
彼は海神で七頭の龍でもある兄のヤムと闘い斧で殺すが、その後、戦争と不毛の神モートに敗れて死ぬと大地は乾燥し荒廃する。バアルの妹にして妻アナトは復讐しモトの身体を切り刻んで野に捨てるとバアルは牡牛となってよみがえりアナトと交わると大地に緑がよみがえる。こうして豊作と旱魃の周期が生まれた。バアルは洪水と旱魃、二つの天災と戦う豊饒の神である。

バアル・・・牡牛、雷神・・・豊饒
ヤム・・・・龍、海神・・・・洪水

牛と雷、龍と海の組み合わせがバビロン神話と一緒である。バアルはフェニキア人に伝わりカルタゴでバアル・ハモン神として信仰された。

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     カルタゴの神バアル・ハモン

神話によって牡牛が雷である場合(バビロン、カナン)と龍、蛇が雷である場合(中国、プエブロ族)がある。しかしほとんどの神話で一致しているのは蛇、龍がカオスであり水神であり、太陽と対立するという事だ。太陽光が水を蒸発させる様に、蛇神が闇に隠していた秘密の宝を太陽神は表に曝露する。

デルポイの女神ガイアを守る大蛇ピュトンが太陽神アポロンに殺される神話は「アポロン的父権制」の記事で書いた。http://blogs.yahoo.co.jp/bashar8698/39963362.html これはバビロンのティアマトとマルドゥク、エジプトのアポピスとラーと同じモチーフだと考えられる。 


この様に見ると本当に対立しているのは牡牛と蛇ではなく、太陽と蛇なのではないかという疑問が生じる。
牛と蛇は常に闘争しているとは限らない。クレタ島では蛇信仰と牡牛信仰が両立していたらしいし、オルペウス教の中ではディオニュソス神が牡牛と蛇に交互に生まれ変わると教えられる。
インドのシヴァ神は牡牛ナンディに乗り、首には蛇を巻いている。
しかしシヴァ神は牡牛ナンディに、ヴィシュヌ神は大蛇シェーシャに乗るといった牛と蛇の間の何らかの確執、勢力争いといったものは感じられる。

牛と蛇の確執はまずもって牧畜と水田農業の確執と考えるべきだろう。牛肉を食べる習慣の無かった日本には牡牛神話が存在しない。その点から考えると牡牛神話とは「食と殺と性の間のタブーの領域」を示しているのであり、古事記のオオゲツヒメや日本書記の保食神(ウケモチ)などハイヌウェレ神話と近い問題を孕んでいる。


<ギリシャ>

ギリシャ神話には特に牛と蛇が多く登場する。
ゼウスは牡牛に化けてエウロペを誘拐し蛇に化けてペルセポネーと交わる。
ザグレウスは牡牛に化けた時にティターンに捕まり解体される。
カドモスは腹に月印のある牡牛をアテナ女神に捧げるが、泉の番をしている龍を石で叩き殺す。カドモス神話は最後にカドモスと妻のハルモニアが蛇になって終わる。

他にもゼウスと格闘した龍のテュポーン、ジブラルタルで黄金の林檎を守りヘラクレスに弓で殺される龍のラドン、金羊毛を守るコルキスの百目の龍、これらはギリシャの先住民族が龍信仰、蛇信仰を持ち、それが後から来たヘラス民族に征服されたと仮定するとうまく説明できると考える学者が多い。
それを証明するかのようにギリシャ文明の古層であるミノア文明のクレタ島からは蛇を持った女神像が発見されている。(下写真)

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しかしクレタ神話のミノスとパシパエに見られる様にクレタでは牡牛信仰も盛んだった。そして蛇と牛の両方が性的なイメージと繋がっている。
地母神は牛と交わる場合と蛇と交わる場合があるのだ。
その違いはどこにあるのだろうか?


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ここからの推測はかなり直感に頼る事になる。

「地母神」という観念はまず生産と生殖の相似象が根本に有ると思われる。
大地は子宮であり雨は精子であり雷は男性器である。
農作物の収穫すなわち生産は太陽のリズムと、女性の生理や魚類の産卵は月のリズムと共振する。そして生産と生殖が相似象をなす事によってこれらは一連の相似象の系となる。


蛇が水神である事は世界共通のようだ。それはまず泥水であり原初のカオスである。そして次にはクネクネとうねった川でありその氾濫、洪水である。洪水は嵐によって起こされる。となると嵐と同時に来る雷もやはり蛇だ。しかし同時にそれは男根の象徴でもある。これらのメタファー、男根~雷~嵐~雨~水~洪水は雨が精子と見なされる事でやはり一連の閉じた系となる。


アステカ神話における蛇神コアトリクエとワニの女神テスカトリポカへの信仰と若い女性の生贄は日本の八岐大蛇神話と同じモチーフ「洪水を司る蛇神への生贄」であると考えられる。
縄文後期は現代より6℃も気温が高かったそうだ。そうだとすれば台風は今よりずっと巨大だったに違いない。日本と同様、メキシコもカリブ海で発生する巨大なハリケーンが襲っただろう。治水工事も無い時代、毎年の川の氾濫は破滅的だった事が想像される。蛇信仰、龍神信仰が強力に生き残った地域とは大雨による川の氾濫が破滅的な様相を呈した地域ではないだろうか?

黄河や長江の氾濫は川の形が全く変わってしまう程のものだった。17年前の長江の氾濫では中流域の田畑が全部水没し水深10mにも達したのは記憶に新しいところだ。これと中国の龍神信仰は関係あるのではないか。


ユダヤ教、キリスト教などの「砂漠型宗教」は神の怒りが強調される「火の宗教」であり正義が悪を断罪する「父性的宗教」である。その下では龍や蛇は一貫して悪役である。
旧約聖書では世界秩序の創造の時レヴィアタン(リヴァイアサン)という龍が退治され、イヴを原罪へとそそのかすサタンも蛇の姿で描かれる。
ヨハネの黙示録では七俣の龍が大天使ミカエルと闘い地下に封印される。

逆に火を「燃える業火」と見、怒りを人間の最も悪い感情とみなし「水の宗教」「母性的宗教」と言われる仏教ではナーガ(蛇)は仏陀を守る存在である。

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仏陀を守るナーガ

インドでも「火の宗教」の性格を持つバラモン教では蛇は悪魔として描かれ、悪龍ヴリトラは雷神インドラと激しい闘いを繰り返し、一度はインドラを恐怖で敗走させるが最後にはヴァジュラで殺される。

また中国の龍神信仰も道教の「母性的性格」「水の宗教」としての性格と無関係ではないだろう。老子は「上善は水の如し」と言い、究極のものを「玄牝」(神秘な母性の働き)と呼ぶ。


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蛇神は洪水を止めるために犠牲を要求する。その犠牲とは
(1)人身御供として川に人を沈める
(2)子供を大蛇の餌として与える
(3)若い女性と交尾する
邪悪なやり口だ。蛇神はその後、多くの場合英雄に殺され切り刻まれる。

蛇が邪悪なイメージで見られるのはある意味では自然な事だと思われる。その残忍さを思わせる目と不気味なシルエット。蛇と牛が人間に与えるイメージの決定的な差は目だ。蛇の目が恐怖を引き起こすのは人間の目とまるで構造が違うからであり、それは昆虫の気味悪さと似ている。
そして「角」を武器にして正面から突進する牡牛に対し「毒」という武器を使う蛇。

ここからは「蛇が神と見なされる社会」とは「畏怖と恐怖が分離していない社会」バタイユのいわゆる「両極の聖性」が未分化な倫理体系の社会ではないか?という仮説が立てられる。


蛇の邪悪なイメージとは反対に牡牛は善良なイメージを持たれやすい存在だ。穏やかな体型と優しそうな目。牛は草食動物であり自分から他の動物を襲う事は無い。しかしアフリカ水牛は怒るとライオンをも殺す事がある。

ちなみに古代の牛は「オーロックス」という今のアフリカ水牛と同じくらい大型の絶滅種で体重は1t にもなったという。そして今の牛よりずっと大きな角は前を向いていた。角が後ろを向いているのと前を向いているのでは武器としての威力が全く違う。オーロックスには虎やライオンも適わなかっただろう。古代牛は恐らく「百獣の王」だったのだ。
(下の写真はオーロックスに近い種をかけあわせて復元されたもの)

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牛と交わったパシパエ、ゼウスと交わった後牝牛にされたイオー、これらの神話は性的対象としての牛を示しており、それは多くの場合タブーを犯す事であり、交わった牛は長い間苦難を受ける事となる。しかしニーチェやバタイユが洞察した通り、タブーを犯す事は聖なるものに近づく事でもある。

カマキリの交尾の後メスがオスを食べてしまう事、多くの魚が産卵、授精の後力尽きて死んでしまう事が連想される。性は生の最終目標であり性の終わりは生の終わりである事、この生命の最も原初的な形を牡牛の犠牲は示す。
牛は豊饒の象徴なのであり、牛の解体が牛への崇拝と裏表である事はミトラ教に最も良く現れている。インドでも牛は生贄にされ解体されるが、それは牛が神聖な動物と見られているからである。


それに対して蛇神も「性と死」と関係するが、その意味は牡牛と全く異なっている。蛇神も英雄によって殺され引き裂かれる。しかし蛇神は(生贄にされる牡牛とは逆に)生贄を要求する側であり、その報いとして(復讐の為に)引き裂かれるのだ。バビロンのティアマト、エジプトのアポピス、カナンのバアルの兄ヤム、日本の八岐大蛇、皆そうである。

これは川の氾濫のメタファーとしての蛇神である。蛇神の退治は英雄的行為となり場合によっては征服民族の英雄叙事詩のテーマとなる。それがたまたま牧畜民族による農耕民族の征服だった場合は「牛と蛇の闘い」となるわけだ。

征服する側から見れば龍を仕留める事は成人儀礼の様になり、英雄になるための条件と見なされる。北欧神話でもファフニールを殺すジークフリート、ヨルムンガルドと闘い相打ちになって絶命する雷神トール、インドでは悪龍ヴリトラと戦うインドラなど枚挙にいとまがない。


しかし蛇神の「性と死」は単なる復讐ではなくもっと神秘的な意味も持っている。何故なら蛇神は川の氾濫を司るだけでなく、水田を荒らす蛙を食べる益獣でもあり、子宮としての大地に雨を降らせ妊娠させる「豊饒の神」でもあるからだ。川の氾濫さえエジプトにおけるナイルの氾濫の様に大地を肥沃にする役割を担う事もある。蛇神は地母神にとって荒廃と豊饒という全く正反対の意味を持ち得るという事である。

ユング派の神話学者カール・ケレーニイはディオニュソス信仰が一貫して「蛇との性的交わり」というモチーフを持ち続けた事を強調している。

「われわれがゼウスとかディオニューソスというギリシャ名を放棄するならば、そのあとには巨大な蛇の姿をした無名の神格が残り・・・」
「神は洞窟に隠された自分の娘のもとを訪れ、娘は神と交わり、この神自身を神の息子として生んだのである。」

ケレーニイはここで単純に神女が蛇と交わったと主張しているのではない。そこでは転生の中で子が親として生まれ替わり時間が逆転するのであり、それは自分の尾を飲み込む蛇、ウロボロスで表される。

今の僕には詳細は分からないが、「牛の精子と月光の関係」そして「蛇と循環する時間の関係」という二つの秘儀がそこに読み取れるように思われる。




参考資料としてはフェルナン・コントの「ラルース世界の神々・神話百科」の他、次の資料を大いに参考にさせてもらった。


ジェベッタ・スティール 「Calling You」

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人生にはたまに不思議な事が起こるものだ。
アンコール・トムのバイヨン遺跡の写真を初めて見た時、既視感(デジャブ)があった事は以前書いたが、「既聴感」というのもあるらしい。

この曲をラジオで聴いた時、遠い昔、まだ2~3歳くらいの時に聴いた曲だと思った。幼い頃初めて聴いた時の状況とその時感じた感情まで覚えていた。

夜の田舎道だった。僕よりずっと年上の従兄弟達と別れる時に近所の家からこの曲が聞こえていたのである。何故か僕は彼等ともう二度と会えない気がしていた。まだ幼い僕にはその時の何とも寂しい感情を理解する事ができなかったが、今なら表現できる。
それは甘く切ない青春時代、その従兄弟たちがそのまっただ中にいた明るい青春が僕には恐らく一生訪れないだろうという予感だった。

その予感は当たった。自分の中に突然生じた悪霊との闘争に明け暮れた禁欲的青春だった。しかしこの曲が初めて世に出たのは1987年の事なのだ。

幼い時の、あのはっきり覚えている状況は何だったのだろうか?
僕はバイヨン遺跡の風景と同様、前世の出来事だったのだと今では考える事にしている。

火星で超巨大爆発?

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去年、火星で超巨大爆発があったと一部のニュースサイトで報じられた。
実はそれ以前から2014年10月に直径10kmの核を持つ巨大彗星サイディングスプリングが火星に衝突する可能性があり、もし衝突すると約200億メガトン(TNT火薬換算)の爆発が起きると予測されていたのである。

この映像を見た時、あまりに凄まじい爆発なので僕はトリック映像の可能性が高いと考えた。しかも報じているのが一部のオカルトサイトであり、一般のニュースでは全く取り上げていなかったからだ。火星には今アメリカの探査機キュリオシティが行って調査を続けているはずだった。

インドの探査機マーチング・オービターは2014年10月19日、サイディングスプリング彗星が火星に接近した時にマリネリス海峡付近で巨大なキノコ雲を発見したと報じた。




しかしもっと以前、2012年3月と4月に火星の南半球で「天文学の常識では考えられない」巨大な噴煙が立ち上っているのが確認された。

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画像はナショナルジオグラフィックよりhttp://natgeo.nikkeibp.co.jp/nng/article/20150218/435977/?ST=m_news

噴煙は高度200km以上に達し10日間も続いた。これについてスペインの天文学者ラベガ氏は、これをネイチャー誌に発表し、「火星の超高層大気で起こりうる現象として、今のところ私たちの持っている常識では説明できません」とコメントした。


またつい最近になって核爆発があった証拠として濃縮された放射性物質が発見された。http://dailymatome.livedoor.biz/archives/1022395252.html

これだけの状況が揃うと「ガセネタ」で済ます事はできなくなる。
これはどう考えればいいのか、今の僕にはまだ分かっていない。一つ考えられるのは、彗星は衝突しなかったが、再接近した時刻に合わせてアメリカが巨大な核兵器を使った可能性、また以前から何度も使っていた可能性である。

何故そのような事をするのか?「火星人との戦争」などという滑稽な説は僕は信じない。では何の為か?
噴煙を巻き上げて温室効果で火星の環境を変え、地球の環境に近づける実験をしているのではないだろうか?

もちろんこれ自体も全くぶっ飛んだ仮定であり、「3・11人口地震説」と同じくらい自分でも半信半疑なのである。
誰か、専門家でこれを説明し僕を安心させてくれる人はいないだろうか?

アテナイ (1)オレステイア

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クレタ島のミノア文明がようやく下り坂にさしかかったB.C.14世紀頃から栄え始めたミュケナイ文明の時代に、すでにテーバイやアテナイは小王国を形成していた。

アッティカの初代王ケクロプスは地母神ガイアの子であり下半身が蛇だったと言われる。ケクロプスの治世中、アテナ女神と海神ポセイドンのどちらを守護神にするか迷った。
ポセイドンが三叉矛でアクロポリス山上を打ち塩水の泉を作ったのに対し、アテナはオリーヴの木を植えた。王はこれを見てアテナを守護神とし国名をアッティカからアテナイに変えた。
この建国神話からクレタ島や小アジアだけでなくギリシャ本土でも古くは蛇信仰があった事が推定できる。蛇が海から陸へ上がり農業を選んだのだ。

この他にも毎春アテナイの郊外アグライで開かれるディアシア祭は、大地の神として大蛇の姿で表されるゼウス・メイリキオスを祭り、生贄の羊や豚を捧げたものである。

しかしバッハオーフェンはこの蛇信仰について触れていない。
やはり彼は「母権制と牡牛と月の意味」に集中した結果「蛇と地母神」というテーマに気付かなかったのだろうか? 
彼は蛇がアマゾン的原理とディオニュソス的原理に関係する事を匂わせるが、エリニュスやゴルゴンの様にはっきりと蛇と関係している場合さえその事を詳しく考察しようとしない。明らかに蛇信仰の問題を避けている。


彼も暗黒時代以前のギリシャ本土に母権制の痕跡を見るが、それは「アテナイの女性が投票権を失った起源」と「テーバイでまず男性によって予言がなされる習慣の起源」という二つの政治的伝説からである。
どちらも男と女の裁定権をめぐる争いがあり、僅差で男の主張が通った事を共通点とする。バッハオーフェンはこの歴史的伝承と「オレステイア」の最後の市民裁判を同じ事と見なしている。



<アポロンとエリニュス>

バッハオーフェンはアイスキュロスの「オレステイア」3部作をホメロスやヘシオドスの叙事詩と同格の神話資料として扱う。

母権制を擁護する側はアガメムノンを殺す妻クリュタイメストラ、オレステスに取り憑く復讐の女神エリニュスであり、父権制を代表するのが父アガメムノンの復讐を果たすオレステス、彼をまもるアポロンである。
特に第3部の市民裁判で二つの制度の論理が激突しアテナが最後にオレステス側に一票を投じてオレステスの無罪を決定する所にアテナイにおける父権制の勝利が象徴されていると考える。http://blogs.yahoo.co.jp/bashar8698/38793250.html

確かにエリニュス達の次の様な歌
「おお、新しい神々よ、古い掟と太古の法を
お前たちは私の手からもぎ取って、踏みにじったのだ」
を見るとその見方は的を得ているのかもしれない。僕はこれを古い復讐の論理と新しい市民道徳の衝突と考えたが、そこに母権制と父権制の衝突を重ねても矛盾は無いと思われる。

しかしオレステイアの分析でのバッハオーフェンはどうも情緒的で説得力に欠けているように思われる。彼は母権制から父権制への移行を物質的母性と母なき精神性、大地の原理と光の原理、物質的で根源的な二元論と調和的な三位一体などと表現しているが、資料が不足している印象を持たざるを得ない。



そこで僕の直感で第3部におけるエリニュスの言葉から母権制の性格を読み取ってみよう。復讐の女神エリニュスはゴルゴンと同様、蛇の髪の毛を持つ者として表現される。(下絵)

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    「エリニュスたちに追い回されるオレステス」ウィリアム・ブーグロー


「私の掟を聞いて、驚いたり恐れたりしない人間がいるだろうか?
神から授かった掟、モイラ(運命の女神)が私に果たせと命じたこの掟を?
だが古くからの地位は私のもの。」

太古の法は「目には目を」の復讐の原理、等価報復の原理に基づき、運命がそれに加担している。この運命はもちろんアイスキュロスたち悲劇作家が描いた「一族の呪われた運命」の意味であり理性的判断に対立するものである。


「だから不幸な私は、汚辱に塗れて、激しい憤りのままに、
大地にだよ、よいか!
仕返しにこの土地に、わが臓腑から毒を滴らせてやろう!」

この復讐法は大地に由来し、不幸、汚辱、憤りなどの災いから大地を回復するためにある。復讐の為には毒を使う様な陰険な手段も許される。


「森を荒廃させる嵐が決して吹き荒れないように
      ─それがこの国への私の贈り物─
また草木の芽を焼き焦がす暑熱も、この国を襲わないように
不毛をもたらす病が忍び寄って
大地の実りを奪い取ることの決してないように」

大地が生む作物が彼女達の贈り物であり、それは母胎の果実(子供)の栄養でもある。復讐の女神はもともとは大地の豊饒の神なのだ。
最後にエウメニデス(慈しみの女神)に変身する根拠もここにある。

大地の豊饒を守り作物と子供に愛を注ぐ慈愛の女神、しかし大地を犯す者に対しては毒を使って復讐し、呪いをかける残酷な女神でもあり、生贄を要求する神でもある。
ここにバッハオーフェンが見落としている(或いは意図的に無視している)
「地母神としての蛇」の元型がはっきり現れていると僕は思う。

これはいずれバッハオーフェンの理念型を修正するものとしてキュベレー信仰、ディオニュソス、インドのドゥルガー女神、マヤのククルカン、日本の八岐大蛇などと共に再考しなければならないだろう。

アテナイ (2)テセウス

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<テセウスとアマゾンの闘い>

アテナイにおける母権制と父権制の闘いを表現しているものとしてオレステイアの次に取り上げられるのはテセウス神話である。(オレステイアの中にも部分的に引用されている。)
テセウスと女人族アマゾンの闘いにはより直接的なアポロン的父権制とアマゾン的女性支配原理の衝突が表されている。

バッハオーフェンによれば、テセウスとアマゾン族の闘いの痕跡がギリシャ各所に残されている。
アマゾネスがテセウスと闘うために陣を敷いた「軍神アレスの丘」、アマゾネスと和議を結んだ場所であるホルコモシオン(和解の誓いの地)、それに関連するテセウスとアマゾネスの二重の祭りアマゾネスの戦士が葬られているアマゾネイオンアテナイにあるアンティオペとモルパディアの墓標、メガラ、テルモドン、スコトゥッサ、キュノスケパライ負傷したアマゾネスが看護を受けたと言われているエウボイア島のカルキス。
アマゾネスが架空の伝説などと説く人はバッハオーフェンを読むべきだ。

彼が特に注目するのはラコニアの町ピュリコスにある「アルテミス・アストラテイアの聖所」である。これは「遠征停止のアルテミス」という意味だ。

アマゾン族は闘いの女神アルテミスを信仰していた。アルテミスはもともとは小アジアの地母神として多産と子供の守り神だったらしいが、ホメロスの時代には「森と狩猟を愛する処女神」となりアポロンと双子の姉妹という事になった。純潔を愛する処女神だけに気性が激しく、侮辱を受けると復讐をする無慈悲な面があり、ニオベ、カリスト、アクタイオンがその犠牲になっている。

しかしアマゾン族はピュリコスにおいてギリシャ軍に降伏しアルテミスは闘いの神である事を止めた。

ホルコモシオンの和議伝説やピュリコスの「アルテミス・アストラテイア像」は「男性を殲滅、排除する」アマゾン的原理から「愛に身を捧げる」女性本来の使命への回帰を表し、それがさらに明瞭に示されているのがテセウスとアンティオペの関係である。


<テセウスとアンティオペ>

テセウスはアマゾン族との戦争でアマゾンの女王ヒッポリュテの妹アンティオペを捕虜とし自分の妻にする。(ヒッポリュテを妻にしたとの説もある)
二人の間に生まれたのがヒッポリュトスである。

アンティオペはテセウスを愛し、彼のために故郷を裏切る。彼女は彼に従ってアテナイではテセウスと共に闘う。もちろんこれはアマゾネスから見れば裏切りであり、そのために後にアマゾネス女王モルパディアに殺される。

しかしその後テセウスはアリアドネの妹、クレタのパイドラ(フェードル)を第二の妻として迎えようとする。
それ以前にラビリントスからの脱出の知恵を授けてくれた命の恩人アリアドネをアテナイへ帰る途中ナクソス島に置き去りにするという理解に苦しむ行動をとったテセウスであったが、ここでまた部族を裏切ってでも夫を支えた妻アンティオペを捨てて新妻を娶ろうとする。
我々は同じパターンをイアソンでも見てきた。どうやらギリシャの英雄は浮気者が多かったらしい。
 
  (アマゾン女王)アンティオペテセウス=パイドラ(クレタの王女)
                                                              
                     ヒッポリュトス

これを部族全体への侮辱と考えたアマゾン族と再び戦争となり、アンティオペは死亡、テセウスは予定通りパイドラと結婚するが、アプロディテの呪いによってパイドラは義理の息子ヒッポリュトスに激しい不倫の恋をする。(これをアプロディテ=アマゾネスと考えればつじつまが合う)
その後の展開はフェードルの記事で書いた通りである。http://blogs.yahoo.co.jp/bashar8698/39764555.html

女王ヒッポリュテと妹アンティオペは同一人物との伝承もある事からバッハオーフェンは思考を飛翔させ、ヒッポリュテとアンティオペがアマゾン族の、さらには女性原理一般の二つの側面とその移行(男嫌いの処女から母親へ)を表わし、二つを統一するのが息子のヒッポリュトスだと解釈する。

「この息子(ヒッポリュトス)の中にベレロポン的な二重の本性が再び現れる。
男性的な、子供を作る力は、同時に民族を殺害する能力である。」
「神官の決闘は生と死の交替を象徴しており、死が生の前提である事を示している。ちょうど奴隷身分が自然法に基礎を置く平等原理を暗示するものであると言われるように。」
(「神官の決闘」に関して注釈すると、ヒッポリュトスはポセイドンの呪いで馬車に轢き殺されるが、その後ローマの女神ディアーナ信仰と混じり合い、ディアーナの聖所を守る森の神ウィルビウスと同一視される。アリキアのディアーナの聖所ではディアーナとウィルビウスが並んで祭られ、神官職は森の木の枝を折った奴隷が神官と決闘し、神官を倒した奴隷に代々引き継がれていたのである。)

このバッハオーフェンの叙述は難解だが、奴隷制の絶対支配が奴隷同士の平等の原理を含み、絶対王政が貴族の力を弱め、王以外の平等を生み出す事で民主主義の準備をする様に、極端まで振れた女性支配がその反対物である父権制を準備すると言いたいのだと思われる。ただバッハオーフェンではこの「両極の一致」といったクザーヌス的な弁証法が「生と死の循環」という彼の考える自然法の論理に包摂されて捉えられている点が特徴的である。

「男嫌いで結婚嫌いの処女からアンティオペは今や母親に移行し、こうして女性の使命を果たす。しかしこれによって彼女はまた、母親としての諸々の苦しみの虜にもなる。」
「生殖とともに死の国が始まる。アンティオペはアマゾン女族としてはあらゆる苦しみから免除されているが、母としては一切の生殖がもつ死の運命から生ずる悲しみの虜になる。」



バッハオーフェンは僕の「浮気者」という印象に反してテセウスを結婚制度の擁護者と解釈する。
実はテセウスはこれ以前に親友のペイリトオスの結婚式で花嫁を乱暴しようとしたケンタウロスを殺している。ヒッポリュトスに呪いをかけたのもパイドラとの不貞への懲罰である。アリアドネをナクソス島に置き去りにしたのも「アプロディテ的女性としてのアリアドネを、彼はアテナの命により、常にもっと物質的で感覚的に考えられていたディオニュソスに引き渡した」のである。

「高次の本性においてはテセウスは結婚の創始者、不貞に復讐する者、アマゾン的女性支配の敵である。」

テセウスが父の埋めたサンダルと剣を掘り出してアテナイ王の子である事を証明した出生神話も母方のトロイゼン王の系譜を否定し父方のアテナイの血筋を証明した事、それにより父方の世襲貴族の国家アテナイを建てた象徴と見なされる。

はっきり言ってこの辺のバッハオーフェンの解釈は強引で、あまり説得力があるとは思えない。王の不倫の子である事を証明して王に嫌がられるエピソードはインドのシャクンタラーなど他にも多く見られるからだ。
またテセウスはその後もハデスの妻になったペルセポネーを略奪しようとして失敗している。

ただ、テセウスとミノタウロスの闘い、テセウスとアマゾネスの闘いが、アテナイのクレタからの独立、父権制ポリスの確立という象徴的な意味を持った出来事であった事、アマゾン的男性排除が女性にもたらす不幸が父権制によって母親としての不幸に置き換わる事の意味、それが生と死の循環という自然法に包摂される事。これらがバッハオーフェンの「アテナイ」の章の意義だろう。

「永遠の生殖と同様に永遠の死の中にのみ不死性がある。それは個人には決して与えられず、ただ種そのものに対してのみ与えられうる。」
この言葉はフロイトの「快感原則の彼岸」にヒントを与えたのではないかと僕は想像する。








Along Came Betty

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モダンジャズ最高のメロディメーカーはベニー・ゴルソンではないか?
と以前書いたが、彼の知的センスが良く現れている曲をもう1曲紹介する。



マイナーキー・ブルースが複雑な転調をしながら、しかも一貫したモチーフの流れを崩さずに統一され、クールで都会的なブルース・フィーリングを保つ。こんな芸当はベニー・ゴルソンにしかできない。

しかも原メロディーが大体俺好みだ。(笑)ブルースの原型はラドレレ#ミソラであるのに対しジャズの原型はソ#ラドミソソ#シであり、ジャズブルースはこの二つの統一なのだという事、ベニー・ゴルソンはそれを熟知しているのだ。

ただ彼の多くの曲の難点はコード進行があまりに複雑過ぎて原メロディーを吹いている内は良いのだが、アドリブになると何をやっているのか分からなくなってしまうという事だ。(笑)

ヴォーカルもソウル歌手とは違ったしわがれた声がかえって新鮮に聞こえる。
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